第1話 君なら分かってくれると思った
「すまない、セシリア。今日の約束なんだが、また今度にしてもらえないか」
その言葉を聞いた瞬間、セシリアは自分でも不思議になるほど何も感じなかった。
悲しいわけでも、腹が立つわけでもない。胸を締めつけられるような寂しささえなく、ただ「やはりそうなったのか」と、ずっと前から知っていた出来事を確認したような気持ちになった。
料理長が今日のために焼き上げた小さなケーキは、すでにテーブルの中央に置かれている。窓辺には白い花が飾られ、侍女たちが朝から時間をかけて準備してくれた料理も、あとは婚約者であるオスカーが到着するのを待つばかりだった。
今日は、セシリア・フォン・エルヴァルトの十八歳の誕生日だった。
そして、オスカーと二人で祝うと三週間も前から約束していた日でもある。
「また、ミレーヌ様ですか?」
そう問いかけると、通信魔道具の向こうでオスカーがわずかに言葉を詰まらせた。
その反応だけで、答えは分かった。
「……彼女の母君が体調を崩されたらしい。ミレーヌも酷く取り乱していて、一人にしておけないんだ」
「そうですか」
「申し訳ないとは思っている。ただ、君なら分かってくれるだろう?」
聞き慣れた言葉だった。
オスカーがセシリアに何かを我慢させる時、最後にはいつも同じ言葉を使う。
――君なら分かってくれる。
ミレーヌ・ローゼン伯爵令嬢は、オスカーの幼馴染だった。
幼い頃に父を亡くし、気弱な性格もあって、困ったことがあるたびにオスカーを頼ってきたという。
夜会で知らない男性に話しかけられて怖かった時も、飼っていた小鳥が逃げてしまった時も、兄と喧嘩をした時も、馬車の車輪が壊れて心細くなった時も、彼女はオスカーを頼った。
そしてオスカーも、そのたびに彼女のもとへ駆けつけた。
セシリアとの観劇の途中でも、二人で出席する予定だった夜会の最中でも、エルヴァルト公爵との大切な会食の日でさえ、ミレーヌから頼られれば予定を変更した。
もちろん、最初からセシリアが黙っていたわけではない。
一度や二度なら仕方がないと思った。
三度、四度と続けば寂しいとも伝えた。
けれど、そのたびにオスカーは困ったように笑った。
『彼女には僕しかいないんだ』
あるいは、
『セシリアは強いから大丈夫だろう?』
そして最後には決まって、
『君なら分かってくれる』
そう言われると、セシリアもそれ以上強くは言えなくなった。
婚約者なのだから、相手の事情を理解するべきだと思っていた。困っている幼馴染を放っておけないオスカーの優しさを、狭量な嫉妬で責める女性にはなりたくなかった。
それに彼はいつも、セシリアを愛していると言ってくれた。
結婚したいのはセシリアだけなのだとも言っていた。
だからこそ、少しくらい譲るべきなのだと考えていた。
そうやってセシリアは、何度も自分を納得させてきた。
けれど今日、オスカーの声を聞きながら、ふと別の疑問が浮かんだ。
――では、私は誰に頼ればいいのだろう。
強いから大丈夫。
物分かりがいいから大丈夫。
一人でも平気だから大丈夫。
そう言われ続けるうちに、自分はいつの間にか「後回しにしても構わない人間」になっていたのではないか。
ミレーヌが弱いから助ける。
セシリアは強いから後でいい。
その理屈を受け入れ続けた結果、オスカーの中では、自分との約束は破っても許されるものになってしまった。
「セシリア?」
返事をしないことを不思議に思ったのか、通信魔道具の向こうからオスカーの声がする。
「怒っているのか?」
「いいえ」
答えてみて、セシリアはそれが強がりではないことに気づいた。
本当に怒っていなかった。
「分かりました」
それだけを告げると、オスカーは明らかにほっとしたようだった。
「ああ、助かるよ。やっぱり君は僕のことを理解してくれるな」
その言葉を聞いた時、セシリアの中で何かが静かに終わった。
壊れた、という感覚ではなかった。
もっとずっと穏やかで、気づいた時にはもう元の形には戻せなくなっているような終わりだった。
「では、オスカー様」
「うん?」
「ミレーヌ様のところへ行って差し上げてください」
「ああ。埋め合わせは必ずするよ」
「お気遣いなく」
セシリアはそう答えて、通信を切った。
静かになった部屋に、時計の音だけが響く。
しばらくして、控えていた侍女のアンナが恐る恐る口を開いた。
「……お嬢様」
「何?」
「ケーキを、お下げいたしましょうか」
セシリアはテーブルの中央に置かれたケーキを見た。
自分の好きなベリーをふんだんに使ったもので、今日のために料理長がわざわざ試作までしてくれたものだった。
オスカーが来るからと、皆が準備してくれた。
それなのに、彼が来ないというだけで片づけてしまうのは、なんだか違う気がした。
「いいえ。皆で食べましょう」
「よろしいのですか?」
「せっかく作ってくれたのだもの。お父様とお母様も呼んできて。今日は私の誕生日なのだから、家族で祝うことにするわ」
その言葉を聞いたアンナは、ほんの一瞬だけ泣きそうな顔をした。
きっと彼女は、これまで何度も見てきたのだろう。
オスカーを待つセシリアを。
約束を反故にされても、それでも婚約者だからと笑って許すセシリアを。
「……かしこまりました」
アンナが部屋を出ていったあと、セシリアはふと左手へ目を落とした。
薬指には、婚約の証としてオスカーから贈られた指輪がはめられていた。
青い宝石を使った美しい指輪だった。
十三歳で婚約が決まり、この指輪を贈られた日のことは今でも覚えている。嬉しくて何度も箱を開けて眺め、なかなか眠れなかった。
いつかオスカーと結婚するのだと思っていた。
彼の隣に立ち、互いに支え合いながら生きていく未来を、何の疑いもなく信じていた。
けれど今、その未来を思い浮かべてみても、胸には何の感情も浮かばなかった。
そこでようやく、セシリアは気づいた。
自分は今日突然、オスカーを嫌いになったわけではない。
五年間積み重ねてきた愛情が、一日ですべて消えてしまったわけでもなかった。
きっと、ずっと前から少しずつ削られていたのだ。
観劇を途中で抜け出された日。
夜会で一人置き去りにされた夜。
自分が熱を出して寝込んでいるのに、ミレーヌが泣いているからと見舞いを断られた日。
寂しいと言えば、君なら分かってくれると言われた日。
そのたびに少しずつ欠けて、それでも大切な婚約なのだからと両手で守り続けていた気持ちが、今日とうとう底をついただけなのだろう。
「私、ずいぶん長いこと頑張っていたのね」
声に出してみると、不思議なくらい腑に落ちた。
同時に、肩へ乗っていた何かがすっと軽くなった。
もう理解しなくてもいい。
もう、自分ばかりが我慢しなくてもいい。
誰かに後回しにされることを、愛されているのだから仕方がないと受け入れなくてもいい。
セシリアは薬指から指輪を外した。
五年間、そこにあることが当たり前だったものなのに、外してみれば指先は驚くほど軽かった。
*
その日の夕食後、セシリアは父であるエルヴァルト公爵の書斎を訪れた。
「お父様。お話があります」
父は娘の顔を見るなり、手元の書類を置いた。
誕生日だというのに婚約者が姿を見せなかったことについて、彼が腹を立てていることはセシリアにも分かっていた。
これまでも父は、オスカーの態度に何度か苦言を呈していた。
けれど、そのたびにセシリア自身が「私が納得していますから」と庇ってきたため、最終的には娘の意思を尊重して口を挟まずにいてくれた。
「オスカー殿のことか?」
「はい」
セシリアは、外した指輪を机の上へ置いた。
宝石が硬い木の天板に触れ、小さな音を立てる。
「婚約を解消したいと思います」
父は目を見開いた。
すぐには何も言わず、娘の顔を確かめるようにじっと見つめる。
「……よいのか?」
「はい」
答えに迷いはなかった。
「今日だけが理由ではありません。今までにも、考える機会は何度もありました。それでも私は、婚約者なのだから理解しなければならない、支えなければならないと思い込んでいただけなのです」
「セシリア」
「オスカー様は、ミレーヌ様を放っておけないのでしょう。それ自体を責めるつもりはありません」
むしろ、もう好きにすればいいと思っていた。
ミレーヌが泣けば駆けつければいい。
彼女が心細いと言うなら、隣にいてやればいい。
以前なら、それを聞くだけで胸の奥が痛んだはずなのに、今は止めたいという気持ちすら残っていなかった。
「ですから、好きになさったらよいと思います」
セシリアは穏やかに言った。
「ただ私は、これからは私を大切にしてくださる方を、私も大切にしたいのです」
父はしばらく黙っていた。
やがて大きく息を吐くと、椅子から立ち上がり、幼い頃にそうしてくれたように一度だけ娘の頭を撫でた。
「分かった」
その声には、怒りよりも安堵の方が強く滲んでいた。
「よく言った」
セシリアは少し驚いて父を見上げたが、彼はそれ以上何も言わなかった。
翌朝。
エルヴァルト公爵家からオスカーの家へ、正式な婚約解消の申し入れが送られた。
その頃オスカーはまだ、事態の重大さを理解していなかった。
ミレーヌの母の容体も落ち着き、本人を慰めながら、数日もすればセシリアの気持ちも落ち着くだろうと思っていた。
これまでが、ずっとそうだったからだ。
セシリアなら分かってくれる。
セシリアなら待っていてくれる。
そして何より、セシリアは自分を愛しているのだから、最後には許してくれる。
オスカーはそれを、疑ったことすらなかった。
けれど彼は、まだ知らなかった。
人の愛情は、どれほど深くても無限ではない。
傷つけられた愛情が、いつも怒りや憎しみに変わるわけでもない。
長い時間をかけて少しずつ摩耗した末に、ある日ふと、何も残らなくなってしまうこともあるのだと。




