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「それでも、命を捨てるな」  作者: あーちゃん


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9/10

「救われなかった人間たち」


事件は終わっても、人の心はすぐには終われません。

救われなかった人間たちは、それでも続く日々の中で答えを探します。



 蒼の事件から、季節は少しずつ秋へ向かっていた。


 街路樹の葉が色を変え始め、朝晩の空気に冷たさが混じるようになった。湊は相変わらず交番勤務を続けていたが、事件以降、彼の中には消えない重さが残っていた。


 蒼は起訴された。


 当然のことだった。


 人質を取った事実は消えない。店員の女性は怪我こそなかったが、事件後しばらく仕事に戻れなくなった。夜になると眠れず、コンビニの明かりを見るだけで震えが止まらないと聞いた。


 湊はその話を聞くたびに、自分の中の蒼を庇いたい気持ちを恥じた。


 蒼も苦しんでいた。


 でも、被害者も苦しんでいる。


 苦しんでいた人間が、別の誰かを苦しめていい理由にはならない。


 その当たり前のことが、湊には重かった。


 ある日、湊は被害者の女性が書いた供述調書の一部を目にした。


『犯人は何度も謝っていました。でも、謝られても怖かったです。今でも、あの時の声を思い出します』


 湊はその一文から目を離せなかった。


 謝っていた。


 でも怖かった。


 どちらも真実だった。


 人間は一つの言葉では片づけられない。


 加害者。


 被害者。


 救う側。


 救われる側。


 そんなふうに分けられたら、どれだけ楽だろう。


 けれど現実の人間は、もっと複雑で、もっと汚くて、もっと弱い。


 湊はそのことを知ってしまった。


 蒼との面会が許されたのは、事件から三ヶ月後だった。


 拘置施設の面会室。


 透明な板を挟んで、蒼は座っていた。


 髪は短くなり、頬は少し痩せていた。だが、目は以前よりも落ち着いていた。


 湊が椅子に座ると、蒼は気まずそうに笑った。


「警察官が犯人に面会って、変じゃないか」


「今は友人として来た」


「友人、まだ名乗ってくれるんだ」


「嫌ならやめる」


「嫌じゃない」


 短い沈黙が落ちた。


 蒼は膝の上で手を組んでいた。


「被害者の人に、謝罪文を書いた」


「聞いた」


「届くかは分からないけど」


「届いても、許されるとは限らない」


「分かってる」


 蒼は頷いた。


「許してほしいって思うのも、身勝手だって分かってる。ただ、謝らないままではいたくない」


 湊はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。


 蒼は変わろうとしている。


 けれど、それは美しい再生物語ではなかった。


 誰かを傷つけた後の再生は、いつだって痛みを伴う。


 蒼は湊を見た。


「俺さ、今でも時々思う。あの時、死んでた方が楽だったんじゃないかって」


 湊の胸が強張った。


「でも」


 蒼は続けた。


「そう思うたびに、お前の声を思い出す」


「俺の?」


「それでも、生きろって」


 蒼は目を伏せた。


「あの言葉、正直きついよ。生きるって、こんなにしんどいのかって毎日思う。でも、俺が死んだら、被害者の人に謝ることもできない。自分のしたことを背負うこともできない」


 湊は黙って聞いていた。


「だから、生きる。今は、それしか言えない」


 その言葉は、希望というには暗すぎた。


 けれど、嘘ではなかった。


 湊は頷いた。


「それでいい」


「いいのか?」


「今日、それを言えたなら」


 蒼は少し笑った。


「篠崎さんって人の受け売りか」


「何で知ってる」


「お前、前に言ってた。今日だけ生きろって。それ、絶対お前一人じゃ出てこない言葉だと思った」


 湊は苦笑した。


「失礼だな」


「でも、いい言葉だ」


 蒼は透明な板に視線を向けた。


「湊」


「何だ」


「俺、生きて償えるかな」


 湊はすぐに答えなかった。


 答えられるほど、簡単な問いではなかった。


 被害者が許すかどうかは分からない。


 社会が蒼を受け入れるかどうかも分からない。


 蒼自身が、自分を許せる日が来るかも分からない。


 それでも湊は言った。


「償えるかどうかは、今決めることじゃない。生きて、決め続けることだと思う」


 蒼は小さく頷いた。


 面会時間の終了を告げる声が響いた。


 蒼は立ち上がる前に、湊を見た。


「来てくれてありがとう」


「また来る」


「警察官なのに?」


「友人として」


 蒼は今度こそ、少しだけ笑った。


 その笑顔は高校時代のように明るくはなかった。


 けれど、作り笑いでもなかった。


 面会室を出た湊は、廊下で深く息を吐いた。


 救われなかった人間たち。


 蒼も、被害者も、湊も、雫も。


 完全に救われた人間など、この物語の中にはいないのかもしれない。


 けれど、それで終わりではない。


 救われなかったままでも、生きることはできる。


 答えが出ないままでも、朝は来る。


 その朝を迎えること自体が、時には戦いになる。


 帰り道、湊は雫と待ち合わせた。


 病院近くの小さな公園で、二人は缶コーヒーを飲んだ。


 雫は湊の話を聞いた後、静かに言った。


「誰かを救うって、たぶん、その人を幸せにすることじゃないんですよね」


「じゃあ、何ですか」


「一人で沈まないように、少しだけ隣にいること」


 湊はその言葉を胸にしまった。


 公園では、小さな子どもが母親に手を引かれて歩いていた。


 泣いていた子どもが、母親に抱き上げられて泣き止む。


 その光景を見て、湊は思った。


 人は、本当はずっと誰かに抱きしめてほしいのかもしれない。


 大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃなくていいと言ってほしい。


 死にたいと言った時に、怒らず、離れず、でも強く、死ぬなと言ってほしい。


 それだけで救える命がある。


 それだけでは救えない命もある。


 それでも、言わないよりはいい。


 手を伸ばさないよりはいい。


 湊は空を見上げた。


 夕焼けが、街を静かに染めていた。


 あの冬の夕焼けとは違う色だった。


 少しだけ、優しい色だった。



第9ページを読んでくださりありがとうございます。

救いは完全なものではありません。

それでも、隣にいること、声をかけ続けることが、明日へ繋がることもあります。

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