「救われなかった人間たち」
事件は終わっても、人の心はすぐには終われません。
救われなかった人間たちは、それでも続く日々の中で答えを探します。
蒼の事件から、季節は少しずつ秋へ向かっていた。
街路樹の葉が色を変え始め、朝晩の空気に冷たさが混じるようになった。湊は相変わらず交番勤務を続けていたが、事件以降、彼の中には消えない重さが残っていた。
蒼は起訴された。
当然のことだった。
人質を取った事実は消えない。店員の女性は怪我こそなかったが、事件後しばらく仕事に戻れなくなった。夜になると眠れず、コンビニの明かりを見るだけで震えが止まらないと聞いた。
湊はその話を聞くたびに、自分の中の蒼を庇いたい気持ちを恥じた。
蒼も苦しんでいた。
でも、被害者も苦しんでいる。
苦しんでいた人間が、別の誰かを苦しめていい理由にはならない。
その当たり前のことが、湊には重かった。
ある日、湊は被害者の女性が書いた供述調書の一部を目にした。
『犯人は何度も謝っていました。でも、謝られても怖かったです。今でも、あの時の声を思い出します』
湊はその一文から目を離せなかった。
謝っていた。
でも怖かった。
どちらも真実だった。
人間は一つの言葉では片づけられない。
加害者。
被害者。
救う側。
救われる側。
そんなふうに分けられたら、どれだけ楽だろう。
けれど現実の人間は、もっと複雑で、もっと汚くて、もっと弱い。
湊はそのことを知ってしまった。
蒼との面会が許されたのは、事件から三ヶ月後だった。
拘置施設の面会室。
透明な板を挟んで、蒼は座っていた。
髪は短くなり、頬は少し痩せていた。だが、目は以前よりも落ち着いていた。
湊が椅子に座ると、蒼は気まずそうに笑った。
「警察官が犯人に面会って、変じゃないか」
「今は友人として来た」
「友人、まだ名乗ってくれるんだ」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
短い沈黙が落ちた。
蒼は膝の上で手を組んでいた。
「被害者の人に、謝罪文を書いた」
「聞いた」
「届くかは分からないけど」
「届いても、許されるとは限らない」
「分かってる」
蒼は頷いた。
「許してほしいって思うのも、身勝手だって分かってる。ただ、謝らないままではいたくない」
湊はその言葉を聞いて、少しだけ息を吐いた。
蒼は変わろうとしている。
けれど、それは美しい再生物語ではなかった。
誰かを傷つけた後の再生は、いつだって痛みを伴う。
蒼は湊を見た。
「俺さ、今でも時々思う。あの時、死んでた方が楽だったんじゃないかって」
湊の胸が強張った。
「でも」
蒼は続けた。
「そう思うたびに、お前の声を思い出す」
「俺の?」
「それでも、生きろって」
蒼は目を伏せた。
「あの言葉、正直きついよ。生きるって、こんなにしんどいのかって毎日思う。でも、俺が死んだら、被害者の人に謝ることもできない。自分のしたことを背負うこともできない」
湊は黙って聞いていた。
「だから、生きる。今は、それしか言えない」
その言葉は、希望というには暗すぎた。
けれど、嘘ではなかった。
湊は頷いた。
「それでいい」
「いいのか?」
「今日、それを言えたなら」
蒼は少し笑った。
「篠崎さんって人の受け売りか」
「何で知ってる」
「お前、前に言ってた。今日だけ生きろって。それ、絶対お前一人じゃ出てこない言葉だと思った」
湊は苦笑した。
「失礼だな」
「でも、いい言葉だ」
蒼は透明な板に視線を向けた。
「湊」
「何だ」
「俺、生きて償えるかな」
湊はすぐに答えなかった。
答えられるほど、簡単な問いではなかった。
被害者が許すかどうかは分からない。
社会が蒼を受け入れるかどうかも分からない。
蒼自身が、自分を許せる日が来るかも分からない。
それでも湊は言った。
「償えるかどうかは、今決めることじゃない。生きて、決め続けることだと思う」
蒼は小さく頷いた。
面会時間の終了を告げる声が響いた。
蒼は立ち上がる前に、湊を見た。
「来てくれてありがとう」
「また来る」
「警察官なのに?」
「友人として」
蒼は今度こそ、少しだけ笑った。
その笑顔は高校時代のように明るくはなかった。
けれど、作り笑いでもなかった。
面会室を出た湊は、廊下で深く息を吐いた。
救われなかった人間たち。
蒼も、被害者も、湊も、雫も。
完全に救われた人間など、この物語の中にはいないのかもしれない。
けれど、それで終わりではない。
救われなかったままでも、生きることはできる。
答えが出ないままでも、朝は来る。
その朝を迎えること自体が、時には戦いになる。
帰り道、湊は雫と待ち合わせた。
病院近くの小さな公園で、二人は缶コーヒーを飲んだ。
雫は湊の話を聞いた後、静かに言った。
「誰かを救うって、たぶん、その人を幸せにすることじゃないんですよね」
「じゃあ、何ですか」
「一人で沈まないように、少しだけ隣にいること」
湊はその言葉を胸にしまった。
公園では、小さな子どもが母親に手を引かれて歩いていた。
泣いていた子どもが、母親に抱き上げられて泣き止む。
その光景を見て、湊は思った。
人は、本当はずっと誰かに抱きしめてほしいのかもしれない。
大丈夫じゃない時に、大丈夫じゃなくていいと言ってほしい。
死にたいと言った時に、怒らず、離れず、でも強く、死ぬなと言ってほしい。
それだけで救える命がある。
それだけでは救えない命もある。
それでも、言わないよりはいい。
手を伸ばさないよりはいい。
湊は空を見上げた。
夕焼けが、街を静かに染めていた。
あの冬の夕焼けとは違う色だった。
少しだけ、優しい色だった。
第9ページを読んでくださりありがとうございます。
救いは完全なものではありません。
それでも、隣にいること、声をかけ続けることが、明日へ繋がることもあります。




