「それでも、生きろ」
湊が言いたかった言葉。
蒼が本当は聞きたかった言葉。
二人の長い冬が、ここでようやくぶつかります。
蒼が取り押さえられた後、コンビニの外には赤色灯の光が揺れていた。
人質だった店員は救急車の中で手当てを受けていた。怪我はなかったが、精神的なショックは大きかった。湊はその姿を見て、胸が痛んだ。
蒼を助けたいと思った。
けれど、蒼が誰かを傷つけた事実から目を逸らしてはいけない。
その矛盾が、湊の胸の中で重く絡まっていた。
蒼はパトカーに乗せられる前、湊を見た。
手錠をかけられた手。
泣き腫らした目。
その姿は、加害者であり、同時に迷子の少年のようでもあった。
「湊」
蒼が小さく呼んだ。
湊は近づいた。
「俺、また迷惑かけたな」
「かけた」
蒼は少し笑った。
「そこは否定しろよ」
「否定しない」
湊はまっすぐ蒼を見た。
「でも、死ななくてよかった」
蒼の顔が歪んだ。
「これからの方が地獄かもしれない」
「そうかもしれない」
「逃げたくなるかもしれない」
「その時は、また言う」
「何を」
湊は息を吸った。
「それでも、生きろ」
蒼は何も言わなかった。
ただ、涙をこらえるように顔を伏せた。
パトカーのドアが閉まる。
赤色灯が遠ざかっていく。
湊はその場に立ち尽くした。
事件は終わった。
けれど、何も終わっていなかった。
翌日から、湊は事情聴取と報告書に追われた。
知人である犯人に単独で接触したことは、当然問題になった。上司から厳しく叱責され、処分の可能性も示された。
佐久間にも怒鳴られた。
「お前は自分が死んでたかもしれないって分かってるのか!」
「分かってます」
「分かってない! 感情で動くな!」
湊は何も言い返せなかった。
佐久間の怒りは正しかった。
警察官として、湊の行動は危険だった。
けれど、人として、あの場で下がることはできなかった。
その夜、湊は病院へ行った。
事件でショックを受けた店員が搬送された病院だった。
病室には入れなかったが、廊下で偶然、雫に会った。
雫は湊の顔を見るなり言った。
「ひどい顔」
「よく言われます」
「寝てないでしょう」
「少し」
「嘘ですね」
雫は湊を休憩スペースに連れていき、温かいお茶を渡した。
湊は事件のことを話した。
蒼のこと。
人質のこと。
刃物のこと。
自分が言った言葉のこと。
雫は静かに聞いていた。
そして言った。
「神崎さんは、助けたんですね」
湊は首を横に振った。
「分かりません。人質の方は傷ついた。蒼は逮捕された。俺は規則を破った。何が正しかったのか分からない」
「正しかったかどうかは、すぐには分からないと思います」
「じゃあ、どうすれば」
「背負うしかないです」
雫の言葉は優しくなかった。
けれど、嘘でもなかった。
「助けたかった気持ちも、傷つけた人がいる事実も、両方。どちらかだけ見たら、たぶん楽になります。でも、それだと誰かが置いていかれる」
湊はお茶の缶を握りしめた。
「蒼に、生きろって言いました」
「はい」
「でも、生きるって言葉は、時々残酷ですね」
「残酷です」
雫はすぐに頷いた。
「生きていれば、痛みも続きます。罪も消えません。後悔もついてきます。でも、変われる可能性も、生きている間にしかない」
湊は顔を上げた。
「変われるでしょうか」
「すぐには無理でも」
雫は言った。
「今日だけ生きる。その積み重ねでしか、人は変われないんだと思います」
その言葉は、湊の中に静かに残った。
数日後、湊は蒼の取り調べに直接関わることはできなかったが、報告を通して蒼の供述を知った。
蒼は、店員に対する謝罪を何度も口にしていたという。
事件を起こした理由については、最初は何も話さなかった。
けれど少しずつ、自分の過去を話し始めた。
家庭での孤立。
居場所のなさ。
高校退学後の不安定な生活。
頼った相手に利用されたこと。
働いても続かず、自分には価値がないと思い込んでいったこと。
そして事件当日、全てが限界になったこと。
それを読んだ湊は、報告書の文字が滲んで見えた。
蒼の苦しみを知ったところで、事件の被害が消えるわけではない。
けれど、知らなければまた誰かを同じ場所へ追い込む。
湊はそう思った。
ある夜、湊は非番の日に歩道橋へ行った。
莉子を保護した場所だった。
雨は降っていなかった。
街の灯りが遠くに広がり、人々の生活が小さな光として続いていた。
湊は欄干に手を置き、深く息を吐いた。
「それでも、生きろ」
自分で言った言葉を、もう一度呟く。
それは蒼だけに向けた言葉ではなかった。
莉子へ。
雫へ。
救えなかった人たちへ。
そして、自分自身へ。
湊もまた、あの日からずっと、自分を許せずにいた。
自分だけ生きていることを、どこかで責めていた。
蒼を救えなかった自分が、誰かを救いたいと思うことすら罪のように感じていた。
けれど、蒼は生きていた。
壊れたまま。
罪を背負ったまま。
それでも、生きていた。
なら、湊も生きなければならない。
過去から逃げるためではなく、過去を抱えたまま前に進むために。
スマホが震えた。
雫からのメッセージだった。
『今日も生きましたか?』
湊はしばらく画面を見つめ、それから返信した。
『はい。何とか』
すぐに返事が来た。
『それで十分です』
湊は小さく笑った。
十分。
今日を生きた。
それだけで十分な日がある。
夜風が吹いた。
湊は空を見上げた。
雲の隙間から、かすかに星が見えた。
それは救いと呼ぶには頼りない光だった。
けれど、暗闇の中で見失わないためには、それくらいの光で十分なのかもしれなかった。
第8ページを読んでくださりありがとうございます。
“生きろ”という言葉は優しいだけではありません。
それでも湊は、その重さを知った上で、蒼に、自分に、言い続けることを選びます。




