「人を傷つけた人間は、生きちゃダメか」
蒼の叫びは、正しさでは救えないほど壊れていました。
それでも罪は消えず、命もまた消してはいけないものとして残ります。
コンビニの中は、冷房が効きすぎていた。
外の蒸し暑さとはまるで別の場所だった。蛍光灯の白い光が棚の商品を照らし、床には倒れたペットボトルが転がっていた。レジ前には、泣き崩れそうな女性店員が立っている。
そして蒼は、その少し後ろにいた。
刃物を持つ手は震えていた。
湊は両手を見える位置に上げ、ゆっくり歩いた。
「蒼、来た」
「本当に来るんだな」
「呼んだだろ」
「昔から、変に真面目だよな」
蒼は笑った。
その笑い方は、高校時代と少しも変わらなかった。
だから余計に、湊は苦しくなった。
「その人を解放しろ」
湊が言うと、蒼は店員を見た。
「ごめん」
蒼は小さく呟いた。
「本当に、ごめんなさい」
店員は泣きながら頷いた。
蒼は刃物を持ったまま一歩下がった。
湊は店員に目で合図した。
「ゆっくり、こっちへ」
女性は震えながら湊の方へ歩き、入り口付近で待機していた警察官に保護された。
人質が解放された。
外で緊張が少し緩む気配がした。
だが湊は分かっていた。
本当に危険なのは、ここからだった。
蒼はもう、人を盾にする必要がなくなった。
なら次に刃物が向かう先は、一つしかない。
「蒼、刃物を置け」
「無理」
「どうして」
「置いたら、終わるだろ」
「終わらない。話せる」
「話して何になる」
蒼の声が急に荒くなった。
「お前、警察官なんだろ。俺は犯人だ。人質取って、刃物持って、迷惑かけて、怖がらせた。もう終わりだろ」
「罪は罪だ」
湊は言った。
逃げなかった。
「でも、命を捨てていい理由にはならない」
蒼の顔が歪んだ。
「綺麗事言うなよ」
「言うよ」
「俺が何してきたか知ってるのかよ!」
蒼の叫びが店内に響いた。
「高校辞めてから、ずっとまともじゃなかった。家にもいられなくて、親戚の家を転々として、働いても続かなくて、金もなくて、寝る場所もなくて。優しくされたと思ったら利用されて、逃げたらまた一人で」
湊は黙って聞いた。
「俺、ずっと思ってた。あの時、死ねばよかったって」
「蒼」
「生き残ったって、何もいいことなかった。頑張れって言われて、前向けって言われて、でも前なんかどこにもなかった」
蒼の目から涙が落ちた。
「死にたいって言うと怒られる。生きたいって言うと金がいる。助けてって言うと迷惑がられる。じゃあ俺はどうすればよかったんだよ」
湊は言葉を失った。
正しい答えなどなかった。
蒼の苦しみを、湊は知らなかった。
あの手紙の後、蒼がどんな日々を生きてきたのか。
誰に傷つけられ、誰に見捨てられ、どこで眠り、何を失ったのか。
何も知らなかった。
蒼は笑った。
「今日さ、全部終わらせるつもりだった」
湊の身体が強張った。
「でも一人で終わるのが怖かった。誰かに止めてほしかった。でも、助けてって言えなかった。だから、こんなことした」
「馬鹿野郎」
湊の声が震えた。
「そんな助けの求め方があるか」
「分かってるよ!」
蒼は叫んだ。
「分かってる! 俺が悪い! あの店員さんは何も悪くない! 怖い思いさせた! 俺は最低だ!」
蒼は刃物を自分の胸元へ向けた。
「だから、もう生きちゃダメだろ」
「違う」
「違わない!」
「違う!」
湊の怒鳴り声が響いた。
蒼が驚いたように目を見開く。
湊は涙をこらえながら言った。
「人を傷つけたら、償わなきゃいけない。逃げちゃいけない。謝っても許されないことだってある」
蒼は唇を噛んだ。
「でも、だからって死んでいいわけじゃない」
「なんでだよ」
「死んだら、償えないからだ」
蒼の手が震えた。
「生きて謝れ。生きて罰を受けろ。生きて、自分がしたことを背負え」
「そんなの、きつすぎるだろ」
「そうだよ」
湊は一歩近づいた。
「生きる方がきつい。死ぬよりずっときつい日がある。でも、それでも死ぬな」
「俺にそんな価値ない」
「価値とか言うな」
「だって俺は」
「お前は白石蒼だろ!」
湊の声が震えた。
「俺に手紙を書いた奴だろ。死ぬなって言えって、俺に約束させた奴だろ。だったら、まずお前が聞けよ」
蒼の顔が崩れた。
湊はポケットから、古びた手紙を取り出した。
何年も持ち歩いた紙。
折り目が擦り切れ、文字が少し薄くなっていた。
「これ、ずっと持ってた」
蒼は手紙を見た瞬間、声を失った。
「なんで」
「忘れられなかったからだよ」
「捨てろよ、そんなの」
「捨てられるわけないだろ」
湊は手紙を握りしめた。
「俺はお前を助けられなかった。でも、お前の言葉にずっと助けられてきたんだよ」
蒼は首を横に振った。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「俺は誰の役にも立ってない」
「立ってる。少なくとも俺は、お前がいたから警察官になった」
蒼の目が揺れた。
「俺のせいで?」
「違う。お前のおかげで」
湊はゆっくり言った。
「あの冬からずっと、俺は誰かに言いたかった。死ぬなって。今日までずっと、その言葉を練習してたのかもしれない」
蒼の手から力が抜けかけた。
だが次の瞬間、彼はまた刃物を握り直した。
「でも遅いよ」
「遅くない」
「俺、もう壊れてる」
「壊れたままでも生きろ」
「無理だ」
「無理でも、今日だけ生きろ」
湊は雫の言葉を思い出しながら言った。
「一生頑張れなんて言わない。明るい未来を信じろとも言わない。今日だけでいい。今夜だけでいい。生きろ」
蒼は泣いた。
声を殺せず、子どものように泣いた。
「俺、疲れた」
「うん」
「もう、本当に疲れた」
「うん」
「誰かに、大丈夫じゃないって言いたかった」
「言えよ」
湊は手を伸ばした。
「今、言え」
蒼は膝から崩れ落ちた。
刃物が床に落ち、乾いた音を立てた。
「大丈夫じゃない」
蒼は泣きながら言った。
「俺、大丈夫じゃなかった」
湊は駆け寄り、刃物を遠ざけた。
外から警察官たちが突入する気配がする。
蒼は抵抗しなかった。
ただ、湊の袖を掴んだ。
「湊」
「何だ」
「俺、人を傷つけた」
「分かってる」
「生きてていいのか」
湊は即答できなかった。
軽く言ってはいけないと思った。
だから、震える声で、本気で言った。
「生きて、償え」
蒼は泣いた。
その涙が許しになるわけではない。
罪が消えるわけでもない。
それでも、命はまだそこにあった。
そして湊は、今度こそその命に手を伸ばした。
第7ページを読んでくださりありがとうございます。
蒼の罪は消えません。
けれど、罪があることと命を捨てていいことは違います。
湊はその境界線に立ち続けます。




