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「それでも、命を捨てるな」  作者: あーちゃん


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「それでも、命を捨てるな」


最終ページです。

死にたかった人間たちが、それでも明日を選ぶまでの物語。

最後まで、彼らの小さな光を見届けてください。



 春が来た。


 桜の花びらが、拘置施設へ続く道に薄く散っていた。


 湊は面会室へ向かいながら、初めて蒼と出会った高校の教室を思い出していた。窓際の席。冬の空。購買のパン。くだらない会話。死にたいと聞かれて、笑って流してしまった日のこと。


 あれから、長い時間が経った。


 けれど本当は、湊の中ではずっと時間が止まっていたのかもしれない。


 あの冬の校舎裏。


 病院の白い廊下。


 蒼の母の声。


 手紙の文字。


 すべてが湊の中に残っていた。


 でも今、その記憶は少しだけ形を変えていた。


 罰ではなく、約束として。


 面会室に入ると、蒼はすでに座っていた。


 以前よりも痩せていたが、目つきは穏やかだった。湊を見ると、少しだけ笑った。


「桜、咲いてた?」


「咲いてた」


「そっか。もう春か」


 蒼は透明な板越しに、遠くを見るような目をした。


「高校の時も、春になる前に転校したからさ。桜、ちゃんと見なかった気がする」


「出たら見ればいい」


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃないけど、見ればいい」


 蒼は小さく笑った。


 しばらく沈黙が続いた。


 その沈黙は、以前のように苦しいものではなかった。


 言葉がなくても、二人の間に流れるものがあった。


 蒼は机の上に手を置いた。


「判決、もうすぐ出る」


「聞いた」


「怖いよ」


「うん」


「自分がしたことの結果なのに、怖い」


「怖くていい」


 蒼は湊を見た。


「俺さ、最近よく考える。生きてていいのかなって」


 湊は息を止めた。


 その問いは、何度も聞いた。


 けれど、今回は少し違って聞こえた。


 死ぬ理由を探す問いではなく、生きる理由を探す問いだった。


「被害者の人は、今でも苦しんでると思う。俺が謝っても、何も戻らない。俺が生きてること自体、腹が立つ人もいると思う」


 蒼は唇を噛んだ。


「それでも、俺、生きてていいのかな」


 湊はすぐに答えなかった。


 窓の外では、春の光が白く滲んでいた。


 命は綺麗なものだけではない。


 生きることは、誰かを傷つけた過去を背負うことでもある。


 自分の弱さと向き合い続けることでもある。


 許されないかもしれない現実の中で、それでも逃げずに朝を迎えることでもある。


 湊は、ゆっくり口を開いた。


「いいに決まってる」


 蒼の目が揺れた。


「でも」


「ただし、楽に生きていいって意味じゃない」


 湊はまっすぐ蒼を見た。


「お前は、自分がしたことを忘れちゃいけない。被害者の人の痛みを、なかったことにしちゃいけない。謝ったから終わりにもできない」


「うん」


「でも、それと命を捨てることは違う」


 蒼の目から涙が落ちた。


「苦しんだ奴ほど、生きなきゃダメだ」


 湊は声を震わせた。


「苦しんだことを、誰かを傷つける理由にしないために。自分みたいな人間を、次は止めるために。償うために。変わるために。生きなきゃダメだ」


 蒼は顔を覆った。


「しんどいな」


「しんどいよ」


「生きるの、しんどい」


「知ってる」


「でも、死ぬなって言うんだろ」


「言う」


 湊は、あの冬に言えなかった言葉を、今度こそはっきり言った。


「それでも、命を捨てるな」


 蒼は泣きながら頷いた。


「分かった」


「本当に分かったか?」


「分かんない」


 蒼は涙の中で少し笑った。


「でも、今日だけは生きる」


 湊も笑った。


「それでいい」


 面会時間が終わった。


 蒼は立ち上がり、最後に湊へ言った。


「湊」


「何だ」


「俺を見捨てないでくれて、ありがとう」


 湊は首を横に振った。


「俺も、お前に助けられてた」


「俺が?」


「そうだよ」


 湊は微笑んだ。


「お前があの手紙をくれたから、俺はここまで来られた」


 蒼は泣きそうな顔で笑った。


「じゃあ、お互い面倒くさいな」


「本当にな」


 二人は笑った。


 それは、明るい笑いではなかった。


 けれど、確かに生きている人間の笑いだった。


 面会室を出た湊は、外の空気を吸い込んだ。


 春の匂いがした。


 拘置施設の門を出ると、桜の花びらが一枚、肩に落ちた。


 湊はそれを指でつまみ、しばらく見つめた。


 その時、スマホが震えた。


 雫からだった。


『今日、病院の屋上から桜が見えました。生きてる人たちに、ちゃんと春が来てました』


 湊はその文を読み、少し笑った。


 そして返信した。


『こっちにも春が来ました』


 送信してから、湊は歩き出した。


 街には今日も、いろんな人がいた。


 泣きそうな顔で歩く人。


 笑って電話する人。


 疲れ切って電車に乗る人。


 誰にも見えない傷を抱えた人。


 もしかしたら、その中には今夜、「消えたい」と思っている人もいるかもしれない。


 湊はもう、自分が全員を救えるとは思っていなかった。


 警察官になっても、正義を叫んでも、人の心を完全に救うことはできない。


 間に合わない命もある。


 届かない言葉もある。


 許されない罪もある。


 それでも。


 それでも、声をかけることはできる。


 隣に座ることはできる。


 今日だけ生きようと言うことはできる。


 死ぬなと叫ぶことはできる。


 命を捨てるなと、何度でも言うことはできる。


 湊は歩きながら、胸の中で蒼の手紙を思い出した。


『俺みたいな奴に会ったら、ちゃんと怒ってやって。死ぬなって』


 なあ、蒼。


 やっと言えたよ。


 でも、これで終わりじゃない。


 これからも言う。


 お前にも。


 誰かにも。


 そして、俺自身にも。


 春の風が吹いた。


 桜が舞った。


 湊は顔を上げ、光の中を歩いた。


 生きることは、簡単じゃない。


 許すことも、償うことも、救うことも、全部難しい。


 それでも、人は歩ける。


 泣きながらでも。


 間違えながらでも。


 誰かの手を借りながらでも。


 今日を越えれば、明日が来る。


 明日が来れば、また選べる。


 死ではなく、生を。


 終わりではなく、続きを。


 絶望ではなく、ほんの小さな光を。


 だから、どうか。


 それでも、命を捨てるな。



最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。


この物語は、「死にたい」と思ってしまう人を責める物語ではありません。

そして、苦しんでいる人に無理やり前向きさを押しつける物語でもありません。


ただ、どれほど苦しくても、

命だけは手放さないでほしい。


今日だけでいい。

今夜だけでいい。

誰かに頼ってもいい。

泣いても、逃げても、立ち止まってもいい。


それでも、生きていてほしい。


この物語が、誰かの明日に少しでも繋がりますように。

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