「消えたいだけなんだ」
“死にたい”という言葉の奥には、別の叫びが隠れていることがあります。
湊は看護師・雫と出会い、その意味を知っていきます。
春川莉子の件から数日後、湊は病院で看護師の篠崎雫と出会った。
きっかけは、交番の前で倒れた高齢男性を救急搬送したことだった。男性は命に別状はなく、湊は付き添いの書類確認のため病院に残った。
夜の救急外来は、静かな戦場のようだった。
泣く子ども。
青ざめた顔の家族。
ストレッチャーの車輪の音。
急ぐ医師の足音。
その中で、雫は落ち着いた声で患者に話しかけていた。
「大丈夫ですよ。今、先生が来ますからね」
その声は、不思議と耳に残った。
大丈夫。
湊が苦手だった言葉。
けれど雫が言うと、それは嘘ではなく、今この瞬間だけでも人を支える小さな屋根のように聞こえた。
書類を書き終えた湊が廊下で缶コーヒーを飲んでいると、雫が隣に立った。
「警察官さん、ずぶ濡れですね」
「え?」
「肩、まだ濡れてます」
湊は自分の制服を見た。
確かに、雨の名残が残っていた。
「慣れてます」
「慣れちゃダメですよ。風邪ひきます」
雫はそう言って、タオルを差し出した。
湊は少し戸惑いながら受け取った。
「ありがとうございます」
「さっきの患者さん、警察官さんが声をかけてくれて助かったって言ってました」
「俺は救急車呼んだだけです」
「その“だけ”ができない人もいます」
雫は微笑んだ。
その笑顔は明るかったが、どこか疲れていた。
湊は思わず聞いた。
「看護師さんは、怖くないんですか」
「何がですか」
「人の命に関わること」
雫は少し考えた。
「怖いですよ。毎日」
「でも、落ち着いて見えます」
「落ち着いて見せてるだけです」
その言葉に、湊は蒼を思い出した。
人は見た目では分からない。
笑っていても、壊れていることがある。
雫は自販機で温かいお茶を買い、湊の隣の椅子に座った。
「警察官さんも、人の死にたいって言葉、聞くことありますか」
湊は缶コーヒーを持つ手に力を込めた。
「あります」
「私もあります」
雫の声は静かだった。
「病院には、いろんな人が来ます。身体の痛みだけじゃなくて、心が限界になった人も。みんな言うんです。死にたいって」
「……何て返すんですか」
「すぐには返しません」
湊は雫を見た。
「まず聞きます。本当に死にたいのか。それとも、今の苦しみから逃げたいのか」
湊は何も言えなかった。
雫は続けた。
「ほとんどの人は、本当は死にたいんじゃないんです。もう痛いのが嫌なんです。もう責められたくない。もう一人で抱えたくない。もう朝が来るのが怖い。だから、消えたいって思う」
「消えたい」
「はい。死にたいじゃなくて、消えたい」
その言葉が、湊の胸に深く落ちた。
蒼もそうだったのだろうか。
死にたかったのではなく、消えたかったのか。
誰にも迷惑をかけない人間になりたかった。
あの言葉の裏側にあった本音を、湊はようやく少しだけ理解した気がした。
雫はお茶の缶を両手で包んだ。
「私、弟がいたんです」
湊は顔を上げた。
「優しい子でした。人に迷惑をかけるのが嫌いで、いつも笑ってて。大丈夫が口癖で」
雫の声が少しだけ震えた。
「でも、本当は全然大丈夫じゃなかった」
湊は何も言わなかった。
「ある日、弟は帰ってきませんでした。詳しいことは、今でも誰かに話すのは苦手です。ただ、私は思ったんです。どうして気づけなかったんだろうって」
湊の胸が痛んだ。
同じだった。
雫も、救えなかった人を抱えていた。
「それで看護師に?」
「はい。単純ですよね」
「俺も似たようなものです」
湊は初めて、蒼のことを誰かに話した。
高校時代の同級生。
笑っていたこと。
死にたいと聞かれたのに、冗談にしたこと。
病院の廊下で責められたこと。
手紙をもらったこと。
話しながら、湊は自分がまだ何も乗り越えていないことに気づいた。
雫は最後まで黙って聞いていた。
そして言った。
「神崎さんは、その人を忘れてないんですね」
「忘れられるわけないです」
「なら、その人はまだ、神崎さんの中で生きてるんだと思います」
「生きてる?」
「はい。誰かの言葉や優しさや後悔の中で、人は少しだけ残るんだと思います」
湊は缶コーヒーを見つめた。
蒼は生きている。
どこかで。
少なくとも、湊の中では。
その時、救急外来の扉が開き、看護師が雫を呼んだ。
「篠崎さん、お願い!」
雫は立ち上がった。
「すみません、行きます」
「あの」
湊は思わず呼び止めた。
「篠崎さんは、死にたいって言う人に、最後は何て言うんですか」
雫は振り返った。
そして、少し困ったように笑った。
「今日だけ生きましょうって言います」
「今日だけ?」
「明日も来年も一生も考えなくていい。まず今日だけ。今日の夜を越えましょうって」
雫は軽く頭を下げ、廊下の向こうへ走っていった。
湊はその背中を見送った。
今日だけ生きる。
それは、命を救うには小さすぎる言葉かもしれない。
けれど、絶望の中にいる人間にとって、一生分の未来は重すぎる。
今日だけ。
この一時間だけ。
この一分だけ。
そうやって繋いだ先に、明日があるのかもしれない。
病院を出ると、雨は止んでいた。
濡れた道路に街灯が反射していた。
湊はスマホを取り出し、蒼の古い連絡先を開いた。
もう繋がらない番号。
もう届かないメッセージ。
それでも湊は文字を打った。
『今日だけ、生きるって言葉を知った』
送信はしなかった。
ただ画面を見つめ、深く息を吸った。
蒼。
お前も、今日だけでよかったんだな。
一生頑張れなんて言わなくてよかった。
未来を信じろなんて、言わなくてよかった。
ただ隣に座って、今日だけ生きようって言えばよかったんだ。
湊はスマホを閉じた。
胸の奥で、長い間凍っていた後悔が、少しだけ形を変えた。
消えたい人に必要なのは、正論ではない。
説教でもない。
明るい未来の約束でもない。
ただ、今この瞬間に隣にいる誰かだ。
湊はそう思った。
第5ページを読んでくださりありがとうございます。
雫との出会いによって、湊は“死にたい”の奥にある声を知ります。
命を救う言葉は、時に「今日だけ生きよう」という小さな一言なのかもしれません。




