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「それでも、命を捨てるな」  作者: あーちゃん


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5/10

「消えたいだけなんだ」


“死にたい”という言葉の奥には、別の叫びが隠れていることがあります。

湊は看護師・雫と出会い、その意味を知っていきます。



 春川莉子の件から数日後、湊は病院で看護師の篠崎雫と出会った。


 きっかけは、交番の前で倒れた高齢男性を救急搬送したことだった。男性は命に別状はなく、湊は付き添いの書類確認のため病院に残った。


 夜の救急外来は、静かな戦場のようだった。


 泣く子ども。


 青ざめた顔の家族。


 ストレッチャーの車輪の音。


 急ぐ医師の足音。


 その中で、雫は落ち着いた声で患者に話しかけていた。


「大丈夫ですよ。今、先生が来ますからね」


 その声は、不思議と耳に残った。


 大丈夫。


 湊が苦手だった言葉。


 けれど雫が言うと、それは嘘ではなく、今この瞬間だけでも人を支える小さな屋根のように聞こえた。


 書類を書き終えた湊が廊下で缶コーヒーを飲んでいると、雫が隣に立った。


「警察官さん、ずぶ濡れですね」


「え?」


「肩、まだ濡れてます」


 湊は自分の制服を見た。


 確かに、雨の名残が残っていた。


「慣れてます」


「慣れちゃダメですよ。風邪ひきます」


 雫はそう言って、タオルを差し出した。


 湊は少し戸惑いながら受け取った。


「ありがとうございます」


「さっきの患者さん、警察官さんが声をかけてくれて助かったって言ってました」


「俺は救急車呼んだだけです」


「その“だけ”ができない人もいます」


 雫は微笑んだ。


 その笑顔は明るかったが、どこか疲れていた。


 湊は思わず聞いた。


「看護師さんは、怖くないんですか」


「何がですか」


「人の命に関わること」


 雫は少し考えた。


「怖いですよ。毎日」


「でも、落ち着いて見えます」


「落ち着いて見せてるだけです」


 その言葉に、湊は蒼を思い出した。


 人は見た目では分からない。


 笑っていても、壊れていることがある。


 雫は自販機で温かいお茶を買い、湊の隣の椅子に座った。


「警察官さんも、人の死にたいって言葉、聞くことありますか」


 湊は缶コーヒーを持つ手に力を込めた。


「あります」


「私もあります」


 雫の声は静かだった。


「病院には、いろんな人が来ます。身体の痛みだけじゃなくて、心が限界になった人も。みんな言うんです。死にたいって」


「……何て返すんですか」


「すぐには返しません」


 湊は雫を見た。


「まず聞きます。本当に死にたいのか。それとも、今の苦しみから逃げたいのか」


 湊は何も言えなかった。


 雫は続けた。


「ほとんどの人は、本当は死にたいんじゃないんです。もう痛いのが嫌なんです。もう責められたくない。もう一人で抱えたくない。もう朝が来るのが怖い。だから、消えたいって思う」


「消えたい」


「はい。死にたいじゃなくて、消えたい」


 その言葉が、湊の胸に深く落ちた。


 蒼もそうだったのだろうか。


 死にたかったのではなく、消えたかったのか。


 誰にも迷惑をかけない人間になりたかった。


 あの言葉の裏側にあった本音を、湊はようやく少しだけ理解した気がした。


 雫はお茶の缶を両手で包んだ。


「私、弟がいたんです」


 湊は顔を上げた。


「優しい子でした。人に迷惑をかけるのが嫌いで、いつも笑ってて。大丈夫が口癖で」


 雫の声が少しだけ震えた。


「でも、本当は全然大丈夫じゃなかった」


 湊は何も言わなかった。


「ある日、弟は帰ってきませんでした。詳しいことは、今でも誰かに話すのは苦手です。ただ、私は思ったんです。どうして気づけなかったんだろうって」


 湊の胸が痛んだ。


 同じだった。


 雫も、救えなかった人を抱えていた。


「それで看護師に?」


「はい。単純ですよね」


「俺も似たようなものです」


 湊は初めて、蒼のことを誰かに話した。


 高校時代の同級生。


 笑っていたこと。


 死にたいと聞かれたのに、冗談にしたこと。


 病院の廊下で責められたこと。


 手紙をもらったこと。


 話しながら、湊は自分がまだ何も乗り越えていないことに気づいた。


 雫は最後まで黙って聞いていた。


 そして言った。


「神崎さんは、その人を忘れてないんですね」


「忘れられるわけないです」


「なら、その人はまだ、神崎さんの中で生きてるんだと思います」


「生きてる?」


「はい。誰かの言葉や優しさや後悔の中で、人は少しだけ残るんだと思います」


 湊は缶コーヒーを見つめた。


 蒼は生きている。


 どこかで。


 少なくとも、湊の中では。


 その時、救急外来の扉が開き、看護師が雫を呼んだ。


「篠崎さん、お願い!」


 雫は立ち上がった。


「すみません、行きます」


「あの」


 湊は思わず呼び止めた。


「篠崎さんは、死にたいって言う人に、最後は何て言うんですか」


 雫は振り返った。


 そして、少し困ったように笑った。


「今日だけ生きましょうって言います」


「今日だけ?」


「明日も来年も一生も考えなくていい。まず今日だけ。今日の夜を越えましょうって」


 雫は軽く頭を下げ、廊下の向こうへ走っていった。


 湊はその背中を見送った。


 今日だけ生きる。


 それは、命を救うには小さすぎる言葉かもしれない。


 けれど、絶望の中にいる人間にとって、一生分の未来は重すぎる。


 今日だけ。


 この一時間だけ。


 この一分だけ。


 そうやって繋いだ先に、明日があるのかもしれない。


 病院を出ると、雨は止んでいた。


 濡れた道路に街灯が反射していた。


 湊はスマホを取り出し、蒼の古い連絡先を開いた。


 もう繋がらない番号。


 もう届かないメッセージ。


 それでも湊は文字を打った。


『今日だけ、生きるって言葉を知った』


 送信はしなかった。


 ただ画面を見つめ、深く息を吸った。


 蒼。


 お前も、今日だけでよかったんだな。


 一生頑張れなんて言わなくてよかった。


 未来を信じろなんて、言わなくてよかった。


 ただ隣に座って、今日だけ生きようって言えばよかったんだ。


 湊はスマホを閉じた。


 胸の奥で、長い間凍っていた後悔が、少しだけ形を変えた。


 消えたい人に必要なのは、正論ではない。


 説教でもない。


 明るい未来の約束でもない。


 ただ、今この瞬間に隣にいる誰かだ。


 湊はそう思った。



第5ページを読んでくださりありがとうございます。

雫との出会いによって、湊は“死にたい”の奥にある声を知ります。

命を救う言葉は、時に「今日だけ生きよう」という小さな一言なのかもしれません。

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