「死ねって言葉は、刃物より痛い」
人は刃物だけで傷つくわけではありません。
何気なく投げられた言葉が、命の灯りを消しかけることもあります。
その通報は、夕方の交番に入った。
「高校生の娘が帰ってこないんです」
電話の向こうで、母親の声が震えていた。
家出かもしれない。友達の家にいるのかもしれない。そう思おうとしているのに、声の端には明らかな恐怖が滲んでいた。
湊は住所と名前を確認し、すぐに周辺の捜索に出た。
女子高校生の名前は、春川莉子。
十七歳。
母親によると、ここ数日ずっと部屋に閉じこもっていたという。学校にも行けず、食事もほとんど取らず、スマホだけを握りしめていた。
原因は、SNSだった。
莉子が投稿した一枚の写真が、悪意ある形で拡散された。
最初は小さな誤解だった。
けれど、誰かが面白がって言葉を足した。
誰かが勝手に決めつけた。
誰かが嘘を本当のように語った。
そして気づけば、莉子の名前も顔も学校も、知らない人間たちの暇つぶしになっていた。
『消えろ』
『生きてる価値ない』
『死ねば?』
湊は母親から見せられた画面を見て、息が詰まった。
たった数文字。
けれど、それは人の心を壊すには十分すぎる刃物だった。
湊は走った。
莉子が行きそうな場所を、母親から聞いた。
通っていた塾。
友達の家。
近所の公園。
そして最後に、駅の近くの歩道橋。
「昔から、嫌なことがあると、あそこに行く子でした」
母親はそう言った。
湊は雨の中、歩道橋へ向かった。
夕方の街は車のライトで滲んでいた。傘を差す人々が足早に通り過ぎる。誰もが自分の生活に急いでいて、誰かの絶望に気づかない。
歩道橋の階段を駆け上がると、そこに莉子はいた。
制服姿で、濡れた髪を頬に貼りつけ、欄干のそばに立っていた。
湊は息を整えながら、ゆっくり声をかけた。
「春川莉子さん?」
莉子は振り向かなかった。
「来ないでください」
声は小さかったが、鋭かった。
湊は足を止めた。
「分かった。ここで止まる」
「警察なんか呼ばないでって言ったのに」
「お母さんが心配してた」
「心配してるなら、もっと早く気づいてよ」
その言葉に、湊の胸が痛んだ。
蒼の母の声と重なった。
なんで気づかなかったの。
湊は雨に濡れながら、静かに言った。
「ごめん」
「あなたが謝ることじゃないでしょ」
「それでも、ごめん」
莉子は笑った。
泣きながら笑った。
「みんな簡単に言うんです。死ねって。消えろって。ブスとか、嘘つきとか、気持ち悪いとか。私のこと何も知らないくせに」
湊は黙って聞いた。
「最初は無視しようと思った。でも、無理だった。寝ても覚めても通知が来る。学校に行ったら見られてる気がする。友達の笑い声も、自分の悪口に聞こえる。鏡を見るのも嫌になる」
莉子の声が震えた。
「私、何かそんなに悪いことしましたか」
湊は答えられなかった。
悪くない。
そう言うのは簡単だった。
けれど、莉子を傷つけた世界は、そんな簡単な言葉では消えない。
莉子はスマホを握りしめていた。
「死ねって言われ続けると、本当に死ななきゃいけない気がしてくるんです」
湊はその言葉を聞いた瞬間、拳を握った。
怒りだった。
誰に向ければいいのか分からない怒り。
無責任な言葉を投げた人間たち。
それを面白がって眺めた人間たち。
止められなかった大人たち。
そして、今また何もできずに立っている自分。
湊は一歩も近づかなかった。
ただ、声だけを強くした。
「死ななくていい」
莉子が少しだけ顔を上げた。
「あなたを傷つけた言葉の責任を、あなたが命で払う必要はない」
「でも、もう無理です」
「無理なら、無理でいい。学校に行けなくてもいい。スマホを見られなくてもいい。泣いてもいい。逃げてもいい。でも、死ぬな」
莉子の肩が震えた。
「そんなの綺麗事です」
「そうだよ」
湊は即答した。
「綺麗事だ。でも、綺麗事でも言わなきゃいけない時がある」
雨音が強くなった。
歩道橋の下を車が流れていく。
湊は蒼の手紙を思い出していた。
死ぬなって、強く言ってやって。
「君に死ねって言った奴らは、明日も普通に飯を食う。笑う。寝る。君がいなくなっても、たぶん責任なんか取らない」
莉子の目から涙が落ちた。
「だから、そんな奴らのために死ぬな」
湊は声を震わせながら続けた。
「生きて、逃げて、休んで、怒っていい。許さなくていい。でも、自分の命だけは、そいつらに渡すな」
莉子はその場に崩れるように座り込んだ。
スマホが手から滑り落ちた。
湊はゆっくり近づき、傘を差し出した。
莉子は泣き続けた。
「私、死にたいわけじゃない」
「うん」
「ただ、もう傷つきたくない」
「うん」
「消えたいだけだった」
湊はその言葉を胸に刻んだ。
死にたい。
その奥には、いつも別の言葉が隠れているのかもしれない。
助けて。
痛い。
苦しい。
もう傷つきたくない。
誰か気づいて。
湊は莉子の隣にしゃがみ、静かに言った。
「帰ろう。今夜だけでいい。今夜を越えよう」
莉子は小さく頷いた。
その後、莉子は保護され、母親の元へ戻った。
問題はすぐに解決しなかった。
投稿は完全には消えなかったし、学校に戻るにも時間がかかった。
加害者全員が反省したわけでもなかった。
けれど莉子は、生きた。
それだけで十分な夜がある。
交番に戻った湊は、濡れた制服のまま椅子に座った。
佐久間が缶コーヒーを置いた。
「よくやった」
湊は首を横に振った。
「俺は、言葉をかけただけです」
「その言葉で踏みとどまる人間もいる」
湊は缶コーヒーを見つめた。
言葉は人を殺す。
けれど、言葉は人を繋ぎとめることもある。
その夜、湊は蒼の手紙に触れながら呟いた。
「少しだけ、言えたよ」
返事はなかった。
でも、雨上がりの窓の外に、街の灯りが揺れていた。
その灯りは、誰かがまだ生きている証のように見えた。
第4ページを読んでくださりありがとうございます。
言葉は見えない刃物にも、救いの手にもなります。
湊はここで初めて、誰かに「死ぬな」と伝えることができました。




