表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「それでも、命を捨てるな」  作者: あーちゃん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

「警察官になった理由」

数年後、湊は警察官になります。

けれどそこにあったのは、正義だけでは救えない現実でした。


 神崎湊が警察官になった理由を聞かれるたび、彼は決まってこう答えた。


「人の役に立ちたいと思ったからです」


 面接でも、配属初日の自己紹介でも、同期との飲み会でも、同じ言葉を使った。


 嘘ではなかった。


 けれど、本当のことでもなかった。


 本当は、たった一人に言えなかった言葉を、誰かに言うためだった。


 死ぬな。


 命を捨てるな。


 その言葉を言える場所に立ちたかった。


 制服を着れば、誰かを守れる気がした。警察官になれば、弱い人の前に立ちはだかれる気がした。泣いている人を見つけ、暴力を止め、孤独の中にいる誰かの手を取れる気がした。


 けれど現実は、そんなに単純ではなかった。


 交番勤務が始まって三週間目の夜、湊は初めて家庭内暴力の通報現場に向かった。


 先輩の佐久間巡査部長と一緒に、古い団地の五階へ駆け上がる。廊下には湿った生活の匂いが漂っていた。インターホンを押す前から、部屋の中から怒鳴り声と物が倒れる音が聞こえた。


 湊の心臓が強く跳ねた。


「落ち着け。まず状況確認だ」


 佐久間が低く言う。


 扉が開くと、そこには痩せた女性と、小学生くらいの男の子がいた。


 女性の頬は赤く腫れていた。


 男の子は母親の後ろに隠れ、湊の制服を見て怯えた目をした。


 部屋の奥では、酒の匂いをまとった男が怒鳴っていた。


「警察呼んだのかよ!」


 湊は一歩前に出ようとした。


 だが佐久間が腕で制した。


「刺激するな」


 湊は悔しかった。


 今すぐ男を取り押さえ、母子を連れ出したかった。


 けれど女性は震えながら言った。


「大丈夫です。ちょっと夫婦喧嘩が大きくなっただけで」


「でも、怪我を」


「転んだんです」


 その言葉を聞いた瞬間、湊は高校時代の蒼を思い出した。


 眠いだけ。


 冬眠の季節だから。


 大丈夫。


 人は、助けてほしい時ほど、大丈夫と言う。


 湊はそう知っていた。


 だが、法律や手続きや本人の意思が、湊の焦りを簡単に止めた。


 現場を収め、男に注意し、女性に相談窓口を伝え、警察署へ戻る。


 帰りのパトカーの中で、湊は拳を握りしめていた。


「何もできないんですね」


 思わず漏れた言葉に、佐久間は前を見たまま答えた。


「何もできなかったわけじゃない。今日、警察が来たという事実は残った」


「でも、あの子はまた殴られるかもしれない」


「そうかもしれない」


「それでいいんですか」


「よくない。けど、俺たちは神様じゃない」


 その言葉に湊は黙った。


 神様じゃない。


 そんなことは分かっている。


 でも、救いたいと思って警察官になった。


 救えないなら、自分は何のためにここにいるのか。


 それからも、湊は何度も現実に叩きつけられた。


 深夜の駅前で酔って倒れた老人。


 万引きで捕まった中学生。


 近隣トラブルで怒鳴り合う高齢者。


 誰かに話を聞いてほしくて、何度も交番に来る女性。


 事件と呼ぶには小さすぎるけれど、人の人生にとっては大きすぎる傷が、街には無数にあった。


 ある雨の日、湊は孤独死の現場に立ち会った。


 一人暮らしの男性だった。


 部屋には古い新聞が積み重なり、テーブルの上には開封されていない薬の袋があった。冷蔵庫には何も入っていなかった。


 壁には、昔撮ったらしい家族写真が一枚だけ飾られていた。


 笑っている父と母と、小さな女の子。


 今、その部屋には誰もいない。


 湊は写真を見て、胸が締めつけられた。


「誰にも気づかれなかったんですね」


 湊が呟くと、佐久間が言った。


「気づいてほしいと言えない人間もいる」


「それって、どうすればいいんですか」


「それを考え続けるのが、この仕事だ」


 答えにはなっていなかった。


 けれど、湊はその言葉を忘れなかった。


 警察官になれば、明確な答えがあると思っていた。


 悪い人を捕まえ、弱い人を助ける。


 正義はまっすぐで、迷いはないのだと思っていた。


 だが実際には、正義はいつも迷っていた。


 助けたい人に拒まれる。


 止めたい暴力が家庭の中に隠れる。


 死にたい人が笑う。


 壊れそうな人が、大丈夫と言う。


 湊は毎晩、寮の部屋に戻ると蒼の手紙を読み返した。


 紙は何度も開いたせいで折り目が薄く破れかけていた。


『俺みたいな奴に会ったら、ちゃんと怒ってやって。死ぬなって』


 湊はその文字を指でなぞった。


「言えるかな、俺」


 誰もいない部屋で呟く。


 警察官の制服を脱いだ湊は、ただの二十四歳だった。


 過去を引きずり、失敗を恐れ、人の痛みを前に立ち尽くすだけの、弱い人間だった。


 そんなある夜、交番に一本の電話が入った。


 女性の声だった。


 震えていた。


『助けてください』


 湊は受話器を握りしめた。


 その声を聞いた瞬間、背筋が伸びた。


 助けて。


 その言葉を言えるまでに、この人はどれだけ苦しんだのだろう。


 湊は静かに答えた。


「大丈夫です。今、向かいます」


 大丈夫。


 かつて嫌いになったその言葉を、湊は初めて誰かのために使った。


 嘘にしないために。


 今度こそ、間に合うために。


第3ページを読んでくださりありがとうございます。

湊は警察官になっても、すぐに誰かを救えるわけではありません。

けれど“助けて”という声に向かう覚悟が、少しずつ彼を変えていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ