「警察官になった理由」
数年後、湊は警察官になります。
けれどそこにあったのは、正義だけでは救えない現実でした。
神崎湊が警察官になった理由を聞かれるたび、彼は決まってこう答えた。
「人の役に立ちたいと思ったからです」
面接でも、配属初日の自己紹介でも、同期との飲み会でも、同じ言葉を使った。
嘘ではなかった。
けれど、本当のことでもなかった。
本当は、たった一人に言えなかった言葉を、誰かに言うためだった。
死ぬな。
命を捨てるな。
その言葉を言える場所に立ちたかった。
制服を着れば、誰かを守れる気がした。警察官になれば、弱い人の前に立ちはだかれる気がした。泣いている人を見つけ、暴力を止め、孤独の中にいる誰かの手を取れる気がした。
けれど現実は、そんなに単純ではなかった。
交番勤務が始まって三週間目の夜、湊は初めて家庭内暴力の通報現場に向かった。
先輩の佐久間巡査部長と一緒に、古い団地の五階へ駆け上がる。廊下には湿った生活の匂いが漂っていた。インターホンを押す前から、部屋の中から怒鳴り声と物が倒れる音が聞こえた。
湊の心臓が強く跳ねた。
「落ち着け。まず状況確認だ」
佐久間が低く言う。
扉が開くと、そこには痩せた女性と、小学生くらいの男の子がいた。
女性の頬は赤く腫れていた。
男の子は母親の後ろに隠れ、湊の制服を見て怯えた目をした。
部屋の奥では、酒の匂いをまとった男が怒鳴っていた。
「警察呼んだのかよ!」
湊は一歩前に出ようとした。
だが佐久間が腕で制した。
「刺激するな」
湊は悔しかった。
今すぐ男を取り押さえ、母子を連れ出したかった。
けれど女性は震えながら言った。
「大丈夫です。ちょっと夫婦喧嘩が大きくなっただけで」
「でも、怪我を」
「転んだんです」
その言葉を聞いた瞬間、湊は高校時代の蒼を思い出した。
眠いだけ。
冬眠の季節だから。
大丈夫。
人は、助けてほしい時ほど、大丈夫と言う。
湊はそう知っていた。
だが、法律や手続きや本人の意思が、湊の焦りを簡単に止めた。
現場を収め、男に注意し、女性に相談窓口を伝え、警察署へ戻る。
帰りのパトカーの中で、湊は拳を握りしめていた。
「何もできないんですね」
思わず漏れた言葉に、佐久間は前を見たまま答えた。
「何もできなかったわけじゃない。今日、警察が来たという事実は残った」
「でも、あの子はまた殴られるかもしれない」
「そうかもしれない」
「それでいいんですか」
「よくない。けど、俺たちは神様じゃない」
その言葉に湊は黙った。
神様じゃない。
そんなことは分かっている。
でも、救いたいと思って警察官になった。
救えないなら、自分は何のためにここにいるのか。
それからも、湊は何度も現実に叩きつけられた。
深夜の駅前で酔って倒れた老人。
万引きで捕まった中学生。
近隣トラブルで怒鳴り合う高齢者。
誰かに話を聞いてほしくて、何度も交番に来る女性。
事件と呼ぶには小さすぎるけれど、人の人生にとっては大きすぎる傷が、街には無数にあった。
ある雨の日、湊は孤独死の現場に立ち会った。
一人暮らしの男性だった。
部屋には古い新聞が積み重なり、テーブルの上には開封されていない薬の袋があった。冷蔵庫には何も入っていなかった。
壁には、昔撮ったらしい家族写真が一枚だけ飾られていた。
笑っている父と母と、小さな女の子。
今、その部屋には誰もいない。
湊は写真を見て、胸が締めつけられた。
「誰にも気づかれなかったんですね」
湊が呟くと、佐久間が言った。
「気づいてほしいと言えない人間もいる」
「それって、どうすればいいんですか」
「それを考え続けるのが、この仕事だ」
答えにはなっていなかった。
けれど、湊はその言葉を忘れなかった。
警察官になれば、明確な答えがあると思っていた。
悪い人を捕まえ、弱い人を助ける。
正義はまっすぐで、迷いはないのだと思っていた。
だが実際には、正義はいつも迷っていた。
助けたい人に拒まれる。
止めたい暴力が家庭の中に隠れる。
死にたい人が笑う。
壊れそうな人が、大丈夫と言う。
湊は毎晩、寮の部屋に戻ると蒼の手紙を読み返した。
紙は何度も開いたせいで折り目が薄く破れかけていた。
『俺みたいな奴に会ったら、ちゃんと怒ってやって。死ぬなって』
湊はその文字を指でなぞった。
「言えるかな、俺」
誰もいない部屋で呟く。
警察官の制服を脱いだ湊は、ただの二十四歳だった。
過去を引きずり、失敗を恐れ、人の痛みを前に立ち尽くすだけの、弱い人間だった。
そんなある夜、交番に一本の電話が入った。
女性の声だった。
震えていた。
『助けてください』
湊は受話器を握りしめた。
その声を聞いた瞬間、背筋が伸びた。
助けて。
その言葉を言えるまでに、この人はどれだけ苦しんだのだろう。
湊は静かに答えた。
「大丈夫です。今、向かいます」
大丈夫。
かつて嫌いになったその言葉を、湊は初めて誰かのために使った。
嘘にしないために。
今度こそ、間に合うために。
第3ページを読んでくださりありがとうございます。
湊は警察官になっても、すぐに誰かを救えるわけではありません。
けれど“助けて”という声に向かう覚悟が、少しずつ彼を変えていきます。




