「助けられなかった夜」
病院の廊下は、白くて静かで、逃げ場のない場所でした。
湊はそこで初めて、自分の無力さと向き合います。
病院の廊下は、異様なほど白かった。
壁も、床も、天井も、看護師の靴音さえも、すべてが白く乾いているように感じた。消毒液の匂いが鼻の奥に残り、湊は息を吸うたびに胸が痛くなった。
蒼が運ばれた病院へ行くべきか、湊は何度も迷った。
行ってどうする。
会えるわけがない。
会えたとして、何を言う。
ごめん。
気づけなくてごめん。
でも、その言葉はあまりにも軽かった。
命を手放そうとした人間に対して、謝罪だけで何が変わるのか分からなかった。
それでも湊は病院へ向かった。
学校帰りの制服のまま、駅前からバスに乗り、窓の外を流れる街をぼんやり見ていた。街は普段通りだった。買い物袋を持つ主婦。自転車で走る小学生。コンビニの前で笑う高校生。
その全部が、湊には遠い世界のように見えた。
病院に着くと、受付で蒼の名前を出す勇気が出なかった。
ただロビーの端に立ち尽くしていると、廊下の向こうから担任の声が聞こえた。
「神崎」
振り向くと、担任は疲れた顔をしていた。
「来たのか」
「……はい」
「今日は会えない。家族以外は無理だ」
「分かってます」
湊はそう言ったが、本当は何も分かっていなかった。
会えないなら、なぜ来たのか。
謝れないなら、何をしに来たのか。
自分でも分からなかった。
ただ、家にいることができなかった。
何もなかったようにご飯を食べて、風呂に入って、布団に入ることが怖かった。
自分だけ普通に眠ることが、許されない気がした。
担任は小さく息を吐いた。
「命に別状はない。ただ、しばらく入院になる」
湊は頷いた。
「先生」
「何だ」
「俺、気づけませんでした」
その言葉を口にした瞬間、涙が出そうになった。
担任はすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、低い声で言った。
「お前だけのせいじゃない」
湊はその言葉に救われなかった。
むしろ、苦しくなった。
お前だけのせいじゃない。
それはつまり、誰かのせいではあるということだった。
家庭か。
学校か。
友達か。
本人か。
それとも、この世界全部か。
湊には分からなかった。
その時、廊下の奥から一人の女性が歩いてきた。
髪を乱し、顔色は青白く、目だけが赤く腫れていた。担任がすぐに姿勢を正したことで、湊はその人が蒼の母親だと分かった。
蒼の母は担任に軽く頭を下げ、それから湊を見た。
「あなた、蒼の友達?」
声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に、張り詰めた刃物のようなものがあった。
湊は喉を詰まらせながら答えた。
「同じクラスの、神崎です」
「蒼と仲良かったの?」
「……はい」
そう言っていいのか分からなかった。
仲が良かったなら、なぜ気づけなかった。
そう聞かれる気がした。
蒼の母は湊をじっと見つめた。
そして、震える声で言った。
「なんで気づかなかったの?」
その一言が、湊の胸に突き刺さった。
責めるような声ではなかった。
怒鳴られたわけでもない。
けれど、だからこそ重かった。
母親の顔には、怒りよりも、悲しみよりも、ただ途方もない絶望が浮かんでいた。
「毎日学校に行ってたんでしょう。毎日顔を見てたんでしょう。どうして、誰も気づいてくれなかったの」
湊は何も言えなかった。
担任が間に入ろうとした。
「お母さん、神崎は――」
「先生にも聞きました。学校でも変わった様子はなかったって。でも、変わってたんですよ。あの子、ずっと苦しかったんですよ」
蒼の母の声が震えた。
「どうして、誰も」
湊は足元を見た。
白い床に、自分の靴が映っていた。
逃げ出したかった。
けれど逃げられなかった。
蒼の母は最後に、小さく言った。
「あの子、昨日の夜、うわごとみたいに言ってました」
湊は顔を上げた。
「何を、ですか」
「神崎は悪くないって」
その瞬間、湊の中で何かが崩れた。
責められる方がまだよかった。
恨まれる方がまだ楽だった。
蒼に「お前のせいだ」と言われたなら、湊は一生その罪を背負えた。
けれど蒼は、悪くないと言った。
死にかけた人間が、まだ誰かを庇った。
その優しさが、湊には耐えられなかった。
病院を出た時、外は雨に変わっていた。
雪混じりの冷たい雨が、制服の肩に落ちて溶けた。
湊は傘を持っていたのに、開かなかった。
駅までの道を濡れながら歩いた。
頭の中で、蒼の母の声が繰り返される。
なんで気づかなかったの。
なんで。
なんで。
湊はその日から、自分の感情に蓋をした。
笑うことが少なくなった。
人の冗談にも、すぐには反応できなくなった。
クラスメイトたちは最初こそ蒼の話をしていたが、時間が経つにつれて少しずつ日常へ戻っていった。
テストがあり、冬休みがあり、年が明けた。
蒼の机は空いたままだった。
けれど教室は回り続けた。
誰かが笑い、誰かが恋の話をし、誰かが進路の話をした。
湊だけが、あの病院の廊下に置き去りにされたままだった。
三学期の終わり、担任から蒼が転校することを聞かされた。
詳しい理由は言えない。
本人と家族の希望だ。
クラス中がざわついた。
湊は何も言わなかった。
その日の放課後、机の中に一通の封筒が入っていた。
宛名はなかった。
中には、短い手紙が入っていた。
『湊へ。
ごめん。
変なこと言って。
俺、本当は死にたかったんじゃないと思う。
誰かに助けてって言いたかっただけかもしれない。
でも、言えなかった。
言ったら迷惑だと思った。
湊は悪くない。
だから、俺のことで自分を嫌いになるな。
でも、もし将来どこかで、
俺みたいな奴に会ったら、
その時はちゃんと怒ってやって。
死ぬなって。
それくらい、強く言ってやって。
白石蒼』
湊は手紙を握りしめた。
声にならないものが喉の奥から込み上げた。
死ぬな。
たった三文字。
けれど、その言葉をあの時言えなかった。
湊は手紙を胸に押し当て、誰もいない教室で泣いた。
窓の外では、夕日が校庭を赤く染めていた。
その光は綺麗だった。
綺麗すぎて、残酷だった。
湊はその日、初めて思った。
人は、誰かを救えなかった後でも、生きていかなければならないのだと。
それは罰なのかもしれない。
でも同時に、約束でもあった。
いつか、誰かに言うために。
死ぬな。
命を捨てるな。
その言葉を、今度こそ届くまで叫ぶために。
第2ページを読んでくださりありがとうございます。
湊が背負った言葉は、彼の人生を大きく変えていきます。
この後、彼は“救えなかった人間”から“救おうとする人間”へ進んでいきます。




