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「それでも、命を捨てるな」  作者: あーちゃん


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2/10

「助けられなかった夜」

病院の廊下は、白くて静かで、逃げ場のない場所でした。

湊はそこで初めて、自分の無力さと向き合います。


 病院の廊下は、異様なほど白かった。


 壁も、床も、天井も、看護師の靴音さえも、すべてが白く乾いているように感じた。消毒液の匂いが鼻の奥に残り、湊は息を吸うたびに胸が痛くなった。


 蒼が運ばれた病院へ行くべきか、湊は何度も迷った。


 行ってどうする。


 会えるわけがない。


 会えたとして、何を言う。


 ごめん。


 気づけなくてごめん。


 でも、その言葉はあまりにも軽かった。


 命を手放そうとした人間に対して、謝罪だけで何が変わるのか分からなかった。


 それでも湊は病院へ向かった。


 学校帰りの制服のまま、駅前からバスに乗り、窓の外を流れる街をぼんやり見ていた。街は普段通りだった。買い物袋を持つ主婦。自転車で走る小学生。コンビニの前で笑う高校生。


 その全部が、湊には遠い世界のように見えた。


 病院に着くと、受付で蒼の名前を出す勇気が出なかった。


 ただロビーの端に立ち尽くしていると、廊下の向こうから担任の声が聞こえた。


「神崎」


 振り向くと、担任は疲れた顔をしていた。


「来たのか」


「……はい」


「今日は会えない。家族以外は無理だ」


「分かってます」


 湊はそう言ったが、本当は何も分かっていなかった。


 会えないなら、なぜ来たのか。


 謝れないなら、何をしに来たのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ、家にいることができなかった。


 何もなかったようにご飯を食べて、風呂に入って、布団に入ることが怖かった。


 自分だけ普通に眠ることが、許されない気がした。


 担任は小さく息を吐いた。


「命に別状はない。ただ、しばらく入院になる」


 湊は頷いた。


「先生」


「何だ」


「俺、気づけませんでした」


 その言葉を口にした瞬間、涙が出そうになった。


 担任はすぐには答えなかった。


 長い沈黙の後、低い声で言った。


「お前だけのせいじゃない」


 湊はその言葉に救われなかった。


 むしろ、苦しくなった。


 お前だけのせいじゃない。


 それはつまり、誰かのせいではあるということだった。


 家庭か。


 学校か。


 友達か。


 本人か。


 それとも、この世界全部か。


 湊には分からなかった。


 その時、廊下の奥から一人の女性が歩いてきた。


 髪を乱し、顔色は青白く、目だけが赤く腫れていた。担任がすぐに姿勢を正したことで、湊はその人が蒼の母親だと分かった。


 蒼の母は担任に軽く頭を下げ、それから湊を見た。


「あなた、蒼の友達?」


 声は静かだった。


 けれど、その静けさの奥に、張り詰めた刃物のようなものがあった。


 湊は喉を詰まらせながら答えた。


「同じクラスの、神崎です」


「蒼と仲良かったの?」


「……はい」


 そう言っていいのか分からなかった。


 仲が良かったなら、なぜ気づけなかった。


 そう聞かれる気がした。


 蒼の母は湊をじっと見つめた。


 そして、震える声で言った。


「なんで気づかなかったの?」


 その一言が、湊の胸に突き刺さった。


 責めるような声ではなかった。


 怒鳴られたわけでもない。


 けれど、だからこそ重かった。


 母親の顔には、怒りよりも、悲しみよりも、ただ途方もない絶望が浮かんでいた。


「毎日学校に行ってたんでしょう。毎日顔を見てたんでしょう。どうして、誰も気づいてくれなかったの」


 湊は何も言えなかった。


 担任が間に入ろうとした。


「お母さん、神崎は――」


「先生にも聞きました。学校でも変わった様子はなかったって。でも、変わってたんですよ。あの子、ずっと苦しかったんですよ」


 蒼の母の声が震えた。


「どうして、誰も」


 湊は足元を見た。


 白い床に、自分の靴が映っていた。


 逃げ出したかった。


 けれど逃げられなかった。


 蒼の母は最後に、小さく言った。


「あの子、昨日の夜、うわごとみたいに言ってました」


 湊は顔を上げた。


「何を、ですか」


「神崎は悪くないって」


 その瞬間、湊の中で何かが崩れた。


 責められる方がまだよかった。


 恨まれる方がまだ楽だった。


 蒼に「お前のせいだ」と言われたなら、湊は一生その罪を背負えた。


 けれど蒼は、悪くないと言った。


 死にかけた人間が、まだ誰かを庇った。


 その優しさが、湊には耐えられなかった。


 病院を出た時、外は雨に変わっていた。


 雪混じりの冷たい雨が、制服の肩に落ちて溶けた。


 湊は傘を持っていたのに、開かなかった。


 駅までの道を濡れながら歩いた。


 頭の中で、蒼の母の声が繰り返される。


 なんで気づかなかったの。


 なんで。


 なんで。


 湊はその日から、自分の感情に蓋をした。


 笑うことが少なくなった。


 人の冗談にも、すぐには反応できなくなった。


 クラスメイトたちは最初こそ蒼の話をしていたが、時間が経つにつれて少しずつ日常へ戻っていった。


 テストがあり、冬休みがあり、年が明けた。


 蒼の机は空いたままだった。


 けれど教室は回り続けた。


 誰かが笑い、誰かが恋の話をし、誰かが進路の話をした。


 湊だけが、あの病院の廊下に置き去りにされたままだった。


 三学期の終わり、担任から蒼が転校することを聞かされた。


 詳しい理由は言えない。


 本人と家族の希望だ。


 クラス中がざわついた。


 湊は何も言わなかった。


 その日の放課後、机の中に一通の封筒が入っていた。


 宛名はなかった。


 中には、短い手紙が入っていた。


『湊へ。


 ごめん。

 変なこと言って。


 俺、本当は死にたかったんじゃないと思う。

 誰かに助けてって言いたかっただけかもしれない。


 でも、言えなかった。

 言ったら迷惑だと思った。


 湊は悪くない。

 だから、俺のことで自分を嫌いになるな。


 でも、もし将来どこかで、

 俺みたいな奴に会ったら、

 その時はちゃんと怒ってやって。


 死ぬなって。


 それくらい、強く言ってやって。


 白石蒼』


 湊は手紙を握りしめた。


 声にならないものが喉の奥から込み上げた。


 死ぬな。


 たった三文字。


 けれど、その言葉をあの時言えなかった。


 湊は手紙を胸に押し当て、誰もいない教室で泣いた。


 窓の外では、夕日が校庭を赤く染めていた。


 その光は綺麗だった。


 綺麗すぎて、残酷だった。


 湊はその日、初めて思った。


 人は、誰かを救えなかった後でも、生きていかなければならないのだと。


 それは罰なのかもしれない。


 でも同時に、約束でもあった。


 いつか、誰かに言うために。


 死ぬな。


 命を捨てるな。


 その言葉を、今度こそ届くまで叫ぶために。

第2ページを読んでくださりありがとうございます。

湊が背負った言葉は、彼の人生を大きく変えていきます。

この後、彼は“救えなかった人間”から“救おうとする人間”へ進んでいきます。

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