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「それでも、命を捨てるな」  作者: あーちゃん


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1/10

「死にたいって、言えなかった」

これは、誰にも弱音を言えなかった少年たちの物語です。


まだ救い方も、助けを求める言葉も知らなかった頃。


ひとつの沈黙が、すべての始まりでした。


 冬の教室は、いつも少しだけ息苦しかった。


 暖房はついているのに、窓際の席だけは冷たい。ガラスの向こうでは、鉛色の空が低く垂れ込めていて、校庭の隅に残った雪が、誰にも踏まれないまま薄汚れていた。


 神崎湊は、その日もいつものように教室の後ろから白石蒼の背中を見ていた。


 蒼は笑うのがうまい奴だった。


 授業中に教師がつまらない冗談を言えば、誰より先に笑った。休み時間には誰かの肩を叩き、昼休みには購買のパンを片手にくだらない話をしていた。人の輪の真ん中にいるのに、なぜか少しだけ遠くにいるような、そんな不思議な雰囲気を持った少年だった。


 湊は蒼と特別仲が良かったわけではない。


 けれど、隣の席になった一学期から、何となく一緒にいることが増えた。帰り道が途中まで同じだったこと。好きな音楽が似ていたこと。二人とも、家の話をあまりしなかったこと。


 理由はそれくらいだった。


 蒼はよく言った。


「湊ってさ、黙ってるけど、ちゃんと見てるよな」


「何を」


「人のこと」


 そう言って笑う蒼に、湊はいつも適当に返していた。


「見てるだけだよ」


「それでいいじゃん。見てくれる奴がいるって、結構ありがたいんだぞ」


 その言葉の意味を、湊が本当に知るのは、もっと後のことだった。


 十二月に入ってから、蒼は少しずつ変わった。


 最初は、遅刻が増えた。


 次に、授業中に眠ることが増えた。


 弁当を持ってこなくなり、購買にも行かなくなった。


 誰かが「最近、白石元気なくね?」と言っても、蒼はいつものように笑った。


「眠いだけ。冬眠の季節だから」


 クラスは笑った。


 湊も笑った。


 笑ってしまった。


 その笑顔が、助けを求める最後の合図だったかもしれないのに。


 ある日の放課後、湊は校舎裏で蒼を見つけた。


 蒼は古い倉庫の壁にもたれて、空を見上げていた。制服の上着を着ていない。白いシャツの袖口から見える手首は、冬の空気に晒されて赤くなっていた。


「寒くないのか」


 湊が声をかけると、蒼は少し驚いた顔をして、それから笑った。


「寒い」


「じゃあ中にいろよ」


「中の方が寒い時もあるだろ」


 その言葉に、湊は何も返せなかった。


 蒼はポケットから潰れた紙パックのコーヒーを出して、飲むふりだけして、結局口をつけなかった。


「湊」


「ん?」


「死にたいって言ったら、どうする?」


 湊は笑った。


 冗談だと思った。


 冗談であってほしかった。


「何言ってんだよ」


「だよな」


 蒼も笑った。


 その笑顔が、あまりにもいつも通りだったから、湊は安心してしまった。


 大丈夫だと思った。


 蒼は強い奴だと思った。


 いつも笑っている奴は、きっと壊れないのだと思った。


 その日の帰り道、蒼はいつもの分かれ道で立ち止まった。


「湊」


「何」


「お前さ、将来何になりたい?」


「急に何だよ」


「いいから」


 湊は少し考えて答えた。


「まだ分かんない」


「そっか」


「蒼は?」


 蒼は空を見上げた。


 夕方の空には雲が厚く重なっていて、太陽の色だけが遠くで滲んでいた。


「俺はさ」


 蒼は笑った。


「誰にも迷惑かけない人間になりたかった」


 その言葉が変だと、湊は思った。


 けれど、その違和感を掴む前に、蒼は手を振って歩き出した。


「じゃあな」


「ああ」


 それが、高校生の湊が見た、蒼の最後の普通の姿だった。


 翌日、蒼は学校に来なかった。


 その翌日も。


 三日目の朝、担任が硬い表情で教室に入ってきた。


 いつもならざわついている教室が、その日は妙に静かだった。誰も理由を知らないはずなのに、全員が何かを察していた。


 担任は教卓に手を置き、深く息を吸った。


「白石が、入院した」


 教室の空気が止まった。


 詳しいことは言えない、と担任は言った。


 命に別状はない、とも言った。


 けれど、その言葉の端々に滲む震えが、何が起きたのかを教えていた。


 蒼は、自分の命を終わらせようとした。


 湊の頭の中で、校舎裏の蒼の声が何度も響いた。


 死にたいって言ったら、どうする?


 湊は何もできなかった。


 笑って流した。


 冗談にした。


 あの時、真剣に聞いていれば。


 あの時、「どうした」と言っていれば。


 あの時、隣に座っていれば。


 そんな“あの時”が、湊の中で無数に増えていった。


 放課後、湊は一人で蒼の机を見た。


 机の中には、使いかけのノートと、折れたシャーペンと、購買のレシートが入っていた。


 何も特別なものはなかった。


 人が壊れる前にも、世界は普通の顔をしている。


 湊はそのことが怖かった。


 誰かが死にたいと思っている日にも、チャイムは鳴る。授業は進む。笑い声は廊下に響く。コンビニでは新商品のパンが並び、電車は時間通りに来る。


 世界は、誰かの絶望を知らないまま回る。


 その夜、湊は眠れなかった。


 スマホを握りしめ、蒼との短いメッセージを何度も読み返した。


『明日、英語の小テストだるいな』


『お前ノート見せろよ』


『いいけど昼飯おごれ』


 最後のやり取りは、たったそれだけだった。


 助けて、なんてどこにも書いていなかった。


 けれど本当は、全部が助けてだったのかもしれない。


 遅刻も、眠気も、笑顔も、冗談も、未来の話も。


 湊は布団の中で声を殺して泣いた。


 泣きながら、何度も思った。


 蒼は、死にたいって言えなかったんじゃない。


 言っていた。


 ちゃんと、言っていた。


 ただ、自分が聞かなかったのだ。


 翌朝、雪が降った。


 白く冷たい雪が、街の汚れを隠すように積もっていく。


 湊は制服に袖を通しながら、鏡の中の自分を見た。


 昨日までと同じ顔。


 同じ目。


 同じ身体。


 けれど、もう同じ人間ではなかった。


 湊の中で、何かが壊れていた。


 そして同時に、何かが生まれていた。


 誰かの「死にたい」を、二度と聞き流したくない。


 その思いだけが、湊の胸の中で、冷たい冬の火のように燃え始めていた。



第1ページを読んでくださりありがとうございます。

“気づけなかった後悔”は、この物語の始まりです。

湊はここから、命の重さを背負って生きていくことになります。

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