「死にたいって、言えなかった」
これは、誰にも弱音を言えなかった少年たちの物語です。
まだ救い方も、助けを求める言葉も知らなかった頃。
ひとつの沈黙が、すべての始まりでした。
冬の教室は、いつも少しだけ息苦しかった。
暖房はついているのに、窓際の席だけは冷たい。ガラスの向こうでは、鉛色の空が低く垂れ込めていて、校庭の隅に残った雪が、誰にも踏まれないまま薄汚れていた。
神崎湊は、その日もいつものように教室の後ろから白石蒼の背中を見ていた。
蒼は笑うのがうまい奴だった。
授業中に教師がつまらない冗談を言えば、誰より先に笑った。休み時間には誰かの肩を叩き、昼休みには購買のパンを片手にくだらない話をしていた。人の輪の真ん中にいるのに、なぜか少しだけ遠くにいるような、そんな不思議な雰囲気を持った少年だった。
湊は蒼と特別仲が良かったわけではない。
けれど、隣の席になった一学期から、何となく一緒にいることが増えた。帰り道が途中まで同じだったこと。好きな音楽が似ていたこと。二人とも、家の話をあまりしなかったこと。
理由はそれくらいだった。
蒼はよく言った。
「湊ってさ、黙ってるけど、ちゃんと見てるよな」
「何を」
「人のこと」
そう言って笑う蒼に、湊はいつも適当に返していた。
「見てるだけだよ」
「それでいいじゃん。見てくれる奴がいるって、結構ありがたいんだぞ」
その言葉の意味を、湊が本当に知るのは、もっと後のことだった。
十二月に入ってから、蒼は少しずつ変わった。
最初は、遅刻が増えた。
次に、授業中に眠ることが増えた。
弁当を持ってこなくなり、購買にも行かなくなった。
誰かが「最近、白石元気なくね?」と言っても、蒼はいつものように笑った。
「眠いだけ。冬眠の季節だから」
クラスは笑った。
湊も笑った。
笑ってしまった。
その笑顔が、助けを求める最後の合図だったかもしれないのに。
ある日の放課後、湊は校舎裏で蒼を見つけた。
蒼は古い倉庫の壁にもたれて、空を見上げていた。制服の上着を着ていない。白いシャツの袖口から見える手首は、冬の空気に晒されて赤くなっていた。
「寒くないのか」
湊が声をかけると、蒼は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「寒い」
「じゃあ中にいろよ」
「中の方が寒い時もあるだろ」
その言葉に、湊は何も返せなかった。
蒼はポケットから潰れた紙パックのコーヒーを出して、飲むふりだけして、結局口をつけなかった。
「湊」
「ん?」
「死にたいって言ったら、どうする?」
湊は笑った。
冗談だと思った。
冗談であってほしかった。
「何言ってんだよ」
「だよな」
蒼も笑った。
その笑顔が、あまりにもいつも通りだったから、湊は安心してしまった。
大丈夫だと思った。
蒼は強い奴だと思った。
いつも笑っている奴は、きっと壊れないのだと思った。
その日の帰り道、蒼はいつもの分かれ道で立ち止まった。
「湊」
「何」
「お前さ、将来何になりたい?」
「急に何だよ」
「いいから」
湊は少し考えて答えた。
「まだ分かんない」
「そっか」
「蒼は?」
蒼は空を見上げた。
夕方の空には雲が厚く重なっていて、太陽の色だけが遠くで滲んでいた。
「俺はさ」
蒼は笑った。
「誰にも迷惑かけない人間になりたかった」
その言葉が変だと、湊は思った。
けれど、その違和感を掴む前に、蒼は手を振って歩き出した。
「じゃあな」
「ああ」
それが、高校生の湊が見た、蒼の最後の普通の姿だった。
翌日、蒼は学校に来なかった。
その翌日も。
三日目の朝、担任が硬い表情で教室に入ってきた。
いつもならざわついている教室が、その日は妙に静かだった。誰も理由を知らないはずなのに、全員が何かを察していた。
担任は教卓に手を置き、深く息を吸った。
「白石が、入院した」
教室の空気が止まった。
詳しいことは言えない、と担任は言った。
命に別状はない、とも言った。
けれど、その言葉の端々に滲む震えが、何が起きたのかを教えていた。
蒼は、自分の命を終わらせようとした。
湊の頭の中で、校舎裏の蒼の声が何度も響いた。
死にたいって言ったら、どうする?
湊は何もできなかった。
笑って流した。
冗談にした。
あの時、真剣に聞いていれば。
あの時、「どうした」と言っていれば。
あの時、隣に座っていれば。
そんな“あの時”が、湊の中で無数に増えていった。
放課後、湊は一人で蒼の机を見た。
机の中には、使いかけのノートと、折れたシャーペンと、購買のレシートが入っていた。
何も特別なものはなかった。
人が壊れる前にも、世界は普通の顔をしている。
湊はそのことが怖かった。
誰かが死にたいと思っている日にも、チャイムは鳴る。授業は進む。笑い声は廊下に響く。コンビニでは新商品のパンが並び、電車は時間通りに来る。
世界は、誰かの絶望を知らないまま回る。
その夜、湊は眠れなかった。
スマホを握りしめ、蒼との短いメッセージを何度も読み返した。
『明日、英語の小テストだるいな』
『お前ノート見せろよ』
『いいけど昼飯おごれ』
最後のやり取りは、たったそれだけだった。
助けて、なんてどこにも書いていなかった。
けれど本当は、全部が助けてだったのかもしれない。
遅刻も、眠気も、笑顔も、冗談も、未来の話も。
湊は布団の中で声を殺して泣いた。
泣きながら、何度も思った。
蒼は、死にたいって言えなかったんじゃない。
言っていた。
ちゃんと、言っていた。
ただ、自分が聞かなかったのだ。
翌朝、雪が降った。
白く冷たい雪が、街の汚れを隠すように積もっていく。
湊は制服に袖を通しながら、鏡の中の自分を見た。
昨日までと同じ顔。
同じ目。
同じ身体。
けれど、もう同じ人間ではなかった。
湊の中で、何かが壊れていた。
そして同時に、何かが生まれていた。
誰かの「死にたい」を、二度と聞き流したくない。
その思いだけが、湊の胸の中で、冷たい冬の火のように燃え始めていた。
第1ページを読んでくださりありがとうございます。
“気づけなかった後悔”は、この物語の始まりです。
湊はここから、命の重さを背負って生きていくことになります。




