嗅ぎつけた漆黒の猟犬と偽りの姫君
(な……なんだ、この脚の感覚と、頼りなさすぎる軸は……!?)
男だった頃の感覚で湿った落葉を蹴ろうとしても、細く華奢な足首は虚しくぐらついた。
重厚なドレスの裾は走るたびに脚へまとわりつき、わずか数分で浅い呼吸になる。
「敵、すぐそこまで……来ていまチュン……ピピッ! むっ、言葉が上手く出ない……!」
頭上から焦燥に満ちた羽音が降り注ぐ。崩れた枝木の間を舞う一羽の灰色のホシムクドリ
――古代魔導で姿を変えられた従者の少年、アギルだ。
暗く湿った樹海の静寂を切り裂き、シャリ……シャリ……と耳障りな金属音が近づいてくる。巨大な刃を引きずり、濡れた土を踏みしめる足音。
「逃がさんぞ、小兎ども……」
立ち込める夜霧を割って現れたのは、背中まで伸ばした黒い髪を狂乱させた長身の男
――ライオスの刺客『漆黒の猟犬』と異名をとるハインケル子爵だった。
血染めの貴族服を纏い、身の丈を超える巨大な漆黒の大鎌を無造作に担いでいる。その背後には、松明を掲げ長い鎌をかざした暗殺団の影が幾重にも蠢いていた。
街道を先導する女魔導士ナディールの顔色は、死人のように蒼白だった。
皇子レナースを、骨格すら完璧な少女『レイリア』へと作り替えた古代の禁呪。それは彼女の生命力と魔力を限界まで貪り尽くす。
「走って、レイリア! あの廃屋へ!」
血の混じる呼気を吐き出しながら、ナディールが差し止めるような手つきで杖をかざす。
「水の精霊よ、霧の帳で我らを隠せ」
シュルルル、と立ち込めた密度の濃い蒸気が追手の視界を遮った隙に、二人は逃げ惑うように森の奥へと踏み込んだ。
佇むのは、月光に打たれる崩れかけた古い石造りの礼拝堂。
二人は滑り込むように木製扉を押し開き、冷たい石の床へ雪崩れ込んだ。
◇
鉄と血の焦げつく匂いが澱む聖域で、ナディールは白銀の魔法陣の中央に膝をついた。
「計算外でしたわ……天地の理を冒す代償が、まさかここまでとは……」
「ナディ……!」
響く高音。駆け寄り、細腕でその肩を抱きしめたレイリアは、波打つ黄金の長髪を揺らし喉を震わせる。
「大丈夫……ですよ、私の可愛いレイリア様。皇子としてではなく、哀れな没落貴族の令嬢として欺き通しなさい。肩をすぼめ、つま先から静かに足を運ぶのです。さすれば、もうあんな泥沼の陰謀に巻き込まれることも……」
「そんなこと、いまはどうだっていい! 君が生きなきゃ意味がないんだ……!」
「これが、私の愛なのです。あなたさえ生きていてくれれば……世界がどうなろうと」
ナディールの氷のように冷たい指先が、泣きじゃくるレナースの頬をなでた。
だが、その温もりを惜しむ暇さえ、世界は与えてくれない。
――ドォォンッ!!
重厚なオーク材の扉が、凄まじい爆風とともに粉々に弾け飛んだ。
「やあやあ、見つけたぞ」
ハインケルたち暗殺団だけは、ジョアン大将軍の足止めを逃れ、
古代魔法の残滓を追って森の間道を追跡してきたようだ。
「迂闊でしたね……追われていたのは私」ナディ―ルの紫色の瞳が曇った。
煙の向こうから現れたハインケルが、三日月のように歪んだ唇で嘲笑う。
その蛇のような双眸が、伏せる二人を舐め回すように捉えた。
「魔導士の方を追えば、一緒にいると思ったよ。関所をすり抜けたカラクリはそれか」
「この方に触るな」ナディ―ルがふら付きながらもレイリアを庇って立ちはだかる。
「見事な魔導だが……男特有の重心の置き方、そしてその瞳に宿る気高き憎悪の光。隠しきれてはおらんよ。……死ね、偽りの『姫君』」
ハインケルの姿が掻き消えた。
超人的な踏み込みとともに、絶望的な漆黒の刃がレイリアの視界を覆い尽くす。
かつて帝国第一の神童と称えられた自負が、反射的に彼女を動かした。腰のレイピアを抜き放ち、白銀の切っ先が完璧な刺突の軌道を描く――はずだった。
(なんだと……、踏み込みが、浅い……!?)
踏み抜いた瞬間、全身の体幹が崩れた。
低くなった視界、あまりにも短い手足のリーチ。柔らかな胸の重みに引っ張られ、狙い澄ました刃先は標的の下へと虚しくぶれる。「まだ、間合いが掴みきれていないか」
「残念だったな、殿下。女の骨格と腕力では、体幹の軸すら取れん」
ガキンッ! と激しい金属音が響き、大鎌の柄で払われたレイピアが手から弾き飛ばされた。軟弱な少女の手首が痛烈な悲鳴を上げる。
「くっ……!」
『レナース様ぁぁぁ!!』
果敢にも小鳥のアギルが飛びかかったが、ハインケルの無造作な左腕の一閃で礼拝堂の石柱へと叩きつけられた。
ハインケルは冷酷に歩み寄り、大鎌の冷たい切っ先を、荒い息を吐く少女の華奢な喉元へと突きつける。




