ナディールの願い
「さらばだ、麗しき偽りの姫よ」
振りかぶられた大鎌の冷たい刃に、ドレス姿の己が映るのを見たレイリア。
「ここまでか……父と母の仇も……討てぬまま、こんな姿で」
逃げ場のない鉄と血の匂いの中、首を刈り取らんと刃が天高く閃いた
――その刹那。
「……私の……大事な……」
凛として澄んだ声が、血煙の立ち込める礼拝堂に響き渡った。
「私の大事なレナース様に……その汚らわしい手を、触れるなと言ったはずです……!」
飛び込んできた彼女の華奢な身体が、レナースを庇うように滑り込む。
ドスッ、と肉を断つ凄絶な音が響き渡った。
「な……ナディ!」
レイリアは悲鳴に近い甲高い声を上げた。
斜めに深く切り裂かれた背を鮮烈な朱に染め上げる。
床に膝を折ってもなお、ナディールは紫の瞳に爛々とした漆黒の魔導の光を宿し、ハインケルを睨みつける。周囲の重力が狂ったように、瓦礫や血の雫が宙へと浮遊し始めた。
「ナディ、よせ! それ以上魔力を使ったら、君の命が――!」
レイリアの悲痛な叫びを、ナディールは柔らかな微笑みで優しく押し包んだ。
「命など……。ハインケルとやら、あなた方を灰塵へと還し、レナース様の未来を拓くための薪に過ぎません。禁呪を使っても、もう失うものなど、……無い」
ナディールの可憐な唇が動かし、指で作った結界でレイリアを包む。
「――天地を統べる理よ。我が魂を薪とし、我が血を代償と成せ。万物を等しく無へと還す、神聖なる終焉の光よ」
ハインケルの鎌の刃先がナディールに向けられる。
「うっ、この女、何をする気だ。させるか、その首を刎ねてやる!」
「――遅いわ」ナディールの指先が宙を切ってハインケルらに向く。
「な、なんだこの魔力は……!? 」
ハインケルの顔から嘲笑が消え、剥き出しの死の恐怖が走る。
「万物を等しく無へと還す、神聖なる終焉の光よ――『万物消失』」
世界から、すべての音が消え去った。
ナディールの胸元から解き放たれたのは、熱と光の概念そのものと言える純白の極光だった。
ハインケルの大鎌が切っ先から一瞬で蒸発し、彼の肉体も、背後に控えていた暗殺団も、何一つ抗うことを許されず白い光の奔流へのみ込まれて消滅していく。
礼拝堂の半分が削ぎ落とされ、結界に守られていたレイリアとアギルを残して消滅する。
衝撃波が収まったとき、そこには無慈悲なまでの静寂と、月明かりだけが残されていた。
敵の影は、服の一片すら残っていない。
「あ……ぁ……」
糸が切れたように崩れ落ちるナディール。全身から魔力の燐光が抜け落ち、その肌は氷のように透き通っていた。
「ナディール! 目を開けてくれ、嘘だろ……! 僕のために死ぬなんて……!」
崩れ落ちた彼女を抱き起こす。涙がとめどなく溢れ、冷えていく頬を濡らした。喉から漏れるのは、悲痛にしゃくりあげる無力な少女の声だった。
「君が死んだら……僕も、アギルも、元には戻れない」
「ごめんなさい。それでも……生きてください。泣かないで……私の、愛らしいお姫様……レイリア……」
ナディールは焦点を失いかけた瞳でレイリアを見つめ、震える指先でその涙を拭う。
「よくお聞きなさい……。西の『湖水地方』へ行き……レーク侯爵を頼るのです……。姿が変わろうとも、どんな運命に弄ばれようとも……あなたは、私の誇り高き皇子様です、レ、レナースさ、ま、」
焦げた石材の匂いと、吹き抜ける夜風。
レイリアの腕の中で、ナディールの身体が透けていく。重みが次第に失われると、霧のように消滅した。まるで、現世に召喚されていた精霊が消えて還って行くかのように。
もし自分にもっと力があれば。こんな変貌の術などに頼らず、皇子として堂々と敵を討てる強さがあったなら。不甲斐なさと悔恨が、胸を引き裂くように渦巻く。
「ナディール……っ! うああああああっ!!」
悲痛な絶叫が夜空に木霊する。己の無力さが、胸を鋭く刺し穿つ。
『……レナース、……様』
微かな念話が、レイリアの脳裏に響いた。
片方の翼を痛ましげに引きずりながら、青灰色の小鳥
――アギルが必死に語り掛ける。
血と埃に汚れながらも、ちっぽけな足で一歩ずつ歩み寄り、レイリアの膝の上へと辿り着く。
『泣かないで……ください……。ナディール様は、あなたに生きて未来を掴んでほしいからこそ……命を捧げられたのです』
アギルのつぶらな瞳からも、小さな光の雫が零れ落ちていた。
彼にとっても、ナディールは敬愛する主であり、母か姉のような存在だったはずだ。
「……アギル」
レイリアは震える指先で、壊れものを包むように小鳥をそっと掌に乗せた。
伝わってくるのは、小さくとも力強く脈打つ、確かな生の温もり。
そうだ。ここで立ち止まり、絶望に身を任せてしまえば、ナディールの命がけの愛も、アギルの負った痛みも、すべてが無駄になってしまう。
(僕は……生きなきゃいけない。この姿になろうとも、どれほど泥を啜ることになろうとも……!)
ドレスの袖で乱暴に涙を拭う。濡れた瞳の奥に、揺るぎない覚悟の炎が灯った。
(泣いている場合じゃない……。ここで僕が倒れたら、ナディールの命も、アギルの痛みも、すべてが無駄になってしまう!)
「行ってくるよ、ナディール。君が遺してくれたこの命……絶対に無駄にはしない」
壊れた礼拝堂の外へ踏み出す。
東の空が群青から茜色へと静かに白み始めていた。朝靄の向こう、西の稜線には湖水地方を抱く雄大な山並みが浮かび上がっている。
「行こう、アギル」
『はい、レナース様……いいえ、レイリア……姫様』
「ふっ、まだその呼び方は慣れないな」
自嘲気味に小さく微笑むと、レイリアは少女の細い足で朝露の土を踏みしめた。
肩をすぼめ、つま先から静かに足を運ぶ。
ナディールが最後に授けてくれた、淑女としての歩み。
それはもう身を隠すための無力な変装ではない。未来を切り拓くための、気高く美しい令嬢としての新たな足取りだった。
可憐なる偽りの姫君は、朝日が射し込む希望の光の中へと、力強く歩みを進めていた。
――だが、レイリアはまだ知らなかった。
目指す湖水地方に待ち受けるのが、ナディールの遺志を揺るがす悲痛な真実であることを。
遠く帝都の向こうから、朝靄を切り裂く追撃の角笛が低く響き渡った。
第二章へ、つづく




