影の皇子、ユリウス 覚醒 ③
その頭上から、巨大な鉄の塊――大剣が容赦なく振り下ろされる。
だが、ユリウスは一歩も引かなかった。
「……騒がしいですね」
右手に握りしめた剣。
装飾の削げ落ちた、泥塗れの長剣だ。その柄に指を滑らせる。
冷たい鉄の感触が、一瞬で五感を研ぎ澄ませた。
頭上の大剣が、わずかにブレる。
振り下ろす大男の右足が、濡れた石畳を踏みしめた瞬間――泥水が跳ねた。
(――遅い)
「ハッ……!?」
ユリウスは前脚の膝を折り、上体をわずかに左へ滑らせた。
白銀の重厚な長衣が風をはらみ、優美な軌跡を描く。
キィン!
鋭い金属音が響き、削れ飛んだ欠片がユリウスの頬を掠める。
だが、大剣の刃は彼の衣服すら捉えていない。
空を切った大男の巨体が、勢い余って前方へ大きく傾いた。
「なっ……!? なぜかわさ――」
「視線で動きが丸分かりですよ」
男が驚愕に目を剥くより早く、ユリウスの身体は動いていた。
最小限の円運動。
滑落する刃の死角を擦り抜けるように、剣先を水平へ滑らせる。
かつて皇城の訓練場で、兄レナースが毎朝見せてくれた、一瞬の点突き。
(ああ、しょせん、真似事ですが……下衆の相手にちょうど良いでしょう)
シュッ。「プラズマ・フェニックス!!」
「が、は……!?」
ユリウスの放った剣先は、大男の喉元
――黒い鎧の隙間、露出した生身の皮膚を正確無比に貫いていた。
「な、隊長……!? 隊長が一瞬で……!?」
ユリウスは刃を引き抜くことなく、柄に左手を添え、横一文字に押し切った。
「ぐあっ……!」
朱色の血が飛沫となって雨の中に弾ける。
巨体が膝から崩れ落ち、泥水の中に倒れ伏した。
残る四人の魔導刺客たちが、一斉に脚を止める。
血煙の中に佇む白銀衣の青年を、信じられない様子で見つめていた。
「バ、バケモノか……? 奴はただの『お飾り皇子』のはずだぞ!?」
「誰がそんな嘘を教えたのですか?」
ユリウスは息一つ乱さず、刃に付着した血脂を、右手の白い手袋でそっと拭った。
白銀の生地に、赤黒い染みが一筋伸びる。
淡い灰青色の瞳は、死体を見下ろすことすらしない。
ただ、残された刺客たちの喉元を、冷徹な視線で射抜いていた。
「……愚者ども」
静かな声だった。
雨音に消えそうなほど低い声音。だが、その場にいた全員の鼓膜へ、凍りつくような冷気とともに届く。
「ライオスに伝えなさい。『わざわざ刺客を送る手間をかけずとも、こちらから向かう』と」
「ふ、ふざけるな! たった一人で何ができる!」
刺客のひとりが半狂乱になって叫んだ。
「 左右から挟め! 囲んで殺せぇぇぇっ!」
残る四人が同時に刃を構えて肉薄する。
連携の取れた挟撃。前後左右、同時に迫る黒い刃の群れ。
「無駄です」
ユリウスの視界の中では、それすらも緩慢な水滴の落下に過ぎなかった。
一歩。
左足を斜め前に滑らせる。
右からの斬撃をかわし、すれ違いざまに刺客の膝裏を蹴り抜いた。
「ぶはっ!?」
「隙だらけです」
体勢を崩した男の背中に、容赦なく剣を突き立てる。
二歩。
「死ねぇぇ!」
背後から迫る槍の突進。
ユリウスは重い聖衣の裾を激しく翻し、相手の視界を遮った。
布が刃を絡め取った一瞬の隙。
「うぐっ!?」
死角から顎下へ向けて、剣の柄頭を突き上げる。
鋭い骨折音が響き、刺客が白目を剥いて倒れた。
「ひぃっ……! こ、来ないでくれ!」
三歩、四歩。
呼吸を整える暇すら与えない。
舞うような無駄のない足さばき。
兄から受け継いだ、冷酷なまでに洗練された剣技。
「うあぁぁぁっ!」
「助け――」
ドスッ、ガキィン!
白百合の紋章が描かれたローブが、次々と血飛沫に濡れていく。
だが、その姿は怪異なほどに美しかった。
まるで、泥塗れの処刑場に舞い降りた殺戮の天使のごとく。
最後のひとりが、血だまりの中に腰を抜かした。
「バ、バケモノ……! 聖職者の面をした、ただの殺戮者だ……」
「……そうですね」
ユリウスは静かに歩み寄る。
濡れた靴底が、石畳の血水を跳ね上げる音が響く。
カツン、カツン。
「何が聖者だ! 何が白百合の皇子だ! お前は悪魔だ!」
「否定はしませんよ」
ユリウスは冷酷な笑みを口元に刻んだ。
完璧に作り上げられた「理想の皇子」の貌ではない。
心底冷え切った、殺し屋の貌だ。
「私は、あなた方の血の上にしか立てない。……だから、躊躇いなどないのです」
「たっ、たすけてくれ――」
カキィィィン!
最後の首が雨の路面を転がり、水たまりを赤く染めた。
静寂が戻る。
聞こえるのは、激しさを増す雨音だけだ。
逃げ惑っていた教会の聖職者や枢機卿が、恐る恐る物陰から顔を覗かせた。
「ユ、ユリウス様……? あ、あなた様は……」
枢機卿がガタガタと震える指先でユリウスを指さす。
「これほどの剣術を、一体どこで……!? それに、その容赦のない戦いぶりは……」
ユリウスは答えなかった。
拾い上げた剣を、倒れた騎士の死体の傍らへ静かに投げ返す。
ガチャン、と重い金属音が虚しく響いた。
ユリウスは胸元に手を入れる。
儀礼服の襟の裏側。指先が触れたのは、濡れて重みを増した古びた飾り紐だ。
兄が作ってくれた組紐。ざらついた麻の感触。
八歳のあの雨の日、孤独でひとり泣いていたユリウス。
温かかった兄の手によって握らされた記憶が、胸の奥で鋭い痛みとなって弾ける。
(兄上……)
心の中で、静かにつぶやく。
(僕の手に塗れたこの血の分だけ、あなたの愛した帝国を取り戻します。……どんな泥を被ろうとも)
ユリウスの目的は、最初から一つしかなかった。
簒奪者ライオスを討ち取り、この歪んだ支配を清算すること。
そのためならば、白百合の皇子として民を騙し、冷酷な処刑人として手を汚し、教会勢力の傀儡を演じることすら厭わない。
ユリウスは振り返り、濡れた髪を軽く払った。
「封印を解きなさい。聖堂騎士たちに出陣の許可を」
「な……!? し、しかしユリウス様!」
枢機卿が慌てて追いかけてくる。
「聖堂騎士は、帝国との古い約束で『無期の活動停止』となっております! 今それを行えば、ライオス派との全面戦争に――」
「ああ、そんな約束もありましたね」
ユリウスは冷淡に言い捨てた。
「これより皇城へ向かいます。不服なら、ライオス叔父上の前で針千本でも飲みますか?」
「えっ……? て、皇城へ!? 敵の本陣へ突入されるとおっしゃるのですか!? たったこれだけの護衛で!?」
「護衛?」
ユリウスは脚を止め、心底軽蔑したような目で枢機卿を見下ろした。
「逃げ惑うだけのお飾り騎士や聖職者など、最初から数に入れていません。……私の邪魔だけはしないでくださいね」
「はぁ……」枢機卿は頭を垂れた。




