湖水地方の別れ さよなら、女の子としての"初恋"
朝日が湖面を黄金色に染め上げる出立の刻。
軍馬のいななきと鎧の擦れ合う硬質な音が、澄んだ早朝の空気を揺らしていた。
ジョアン・ルブラルプス大将軍たちが、出立の準備をしている。
馬具を整え、修理が終わった大砲を荷台に積みこんでいた。
レイリアは、少し離れた高台からその光景を見下ろしていた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。「もっと、いっしょに居たかった……ジョアン」
そろそろ、別れの挨拶のために降りて行かねばならない。
紅筆を唇に走らせ、朝っぱらから念入りにしていた化粧を完成させた。
いちばん気に入っている象牙色のドレスに袖を通す。
仕上げに、いつもは高い位置でポニーテールにしてある長いライトゴールドの髪をたらし、
ハーフアップにするとレースのリボンを飾った。
姿見に映るのは、どこから見ても麗しい侯爵令嬢。
朝の冷気が細い首筋を撫でるたび、薄い衣服越しに伝わる肌の柔らかさが、自分がすでに「男性」ではないことを嫌でも思い知せつていた。
◇
目の前に立つのは、ジョアン・ルブラルプス。
モンブラン戦での傷も癒えて、わずかな手勢とともに帝都へ向かう。
彼は、自分の手でこの国を新しく変えるつもりだ。
レイリアは、いや、レナースが、かつて少年だった頃、その背中に無邪気な憧れを抱き、追いかけた不世出の英雄、ジョアン・ルブラルプス。
憧れのはずだった。だが、ナディールの魔導によって身体が女のものへと変わってから、何かが狂ってしまったのだ。
共に死線をくぐり抜けるたび、不意に見せられる彼の包容力や無骨な優しさに、キュンとなる胸の鼓動。
憧れだったはずの感情は、いつしか自分でも戸惑うほど切なく甘い恋心へと形を変えていた。
(このまま、ジョアンに付いていけたら……)
ふと、甘美な妄想が脳裏をよぎる。
湖水地方の主としての重責も、父の仇討ちも、泥沼の覇権争いもすべて捨てて。
ひとりの"女"として、この男の背中に寄り添い、つくす道があったなら、どれほど幸せだろうか。
ギュッと握りしめた細い指。その指先が震え、爪が手のひらに食い込む。
「——では、行くぞ。世話になったな、レイリア嬢」
ジョアンが低く落ち着いた声で告げ、馬の綱を手にしたまま振り返った。
その力強い瞳に見つめられた瞬間、レイリアは言いたい言葉があふれ出そうになる。
行かないで。私を連れて行って——と。
胸の内で叫ぶ「女としての自分」の声を、レイリアは歯を喰いしばって押し殺した。
ここで彼にすがりつけば、自分は誇り高きステラルプス帝国の皇子ではなくなってしまう。
大好きなジョアンが認めてくれた「対等な戦友」ではなくなってしまうのだ。
レイリアは、ジョアンの愛刀の柄に、かつて手渡した青い組紐が付いていることに気が付く。
関所で助けられた時、御礼に渡したものだ。
間違いない、彼は正体に気付いている。
そして、今も友情を忘れていないと、レイリアは確信した。
「うん、どうかされたか。なにか言いたげだが……?」ジョアンが振り返る。
レイリアは一歩、前に踏み出した。
凛とした風が金髪をなびかせ、碧色の瞳に揺るぎない覚悟の炎が宿る。
「ジョアン。どちらがライオスを討ち、あの玉座を手に入れるか……競走だ」
強がりだと悟られないよう、フッと不敵な笑みを浮かべて言い放つ。
ジョアンは一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがて腹の底から楽しそうに破顔した。
「ハハッ、言ってくれるな!」
ジョアンは大きな歩幅で近づくと、レイリアの頭にドカッと無骨な手を乗せ、子どもをあやすように乱暴に、けれど心底愛おしそうに撫で廻した。
「楽しみにしているぞ、レイリア嬢」
頭に残る大きな手の温もりと、武人らしい鉄と汗の匂い。
それだけを残して、ジョアンは馬に飛び乗り、風のように去っていった。その遠ざかる背中を、レイリアは視界が滲みそうになるのを必死に耐えながら見送り続けた。
「……いっしょに行ってもいいんだぜ、お姫様?」
背後の木の影から、軽薄な声が響いた。
手綱を肩にかけたアルティスが、呆れたような、けれどどこか温かい呆れ顔でニヤニヤと笑いながら歩み寄ってくる。
「だ、誰が……お姫様だ!?おっ、俺は……」
カッと頬が沸騰したように熱くなり、レイリアはバッと振り返って愛剣の柄に手をかけた。
胸の奥に残っていた甘い切なさが、一瞬で恥ずかしさと怒りによって吹き飛んでいく。
「いいじゃないか。ジョアン殿が『皇帝』になれば、お前が"お妃"になれば……ある意味、玉座が手に入るんだぜ」
一瞬だけ、ドレス姿でジョアンの横に立つ姿を思い浮かべたレイリアは真っ赤になった頭をぶんぶんと振った。「ちっ、ちょっと待て。アルティス、怒るぞ」
「へいへい、からかって悪かったか。"名案"なんだけどな」
「遊んでいる暇はないぞ、アルティス。ライオスを討ち、帝都の旗を掲げるのは……この“俺”だ!」
自分の胸をドンと叩き、レイリアは強く言い放った。
女の身体になろうとも、恋に胸を痛めようとも、己の血に流れる帝国の威信と信念だけは絶対に譲らない。
レイリアは白馬ミルキーウェイの手綱を強く握り直し、決意に満ちた足取りで歩み始めた。




