モンブラン山脈・試練の谷 1
湖水地方で体制を整えた進軍は、アストリア山脈の懐深くへと入っていた。
目指すは、山頂にそびえる大要塞――『モンブラン山城』。
目の前に立ちはだかるのは、切り立った巨大な岩山だった。
山頂へ続く最も短いルートとされるのが、この『水涸れ谷』。
干上がった川底の両側には、見上げるほどの高い崖が迫っている。
全体が狭いV字型を成し、どこか不気味な静寂が漂っていた。
「ここが、最も効率よく登れる抜け道でございます」
進言したのは、軍師ザイム。
その穏やかな表情の裏にある企みを、進軍する者たちはまだ知らない。
「……嫌な地形だな。ザイム、本当にこの策で間違いないのだな」
馬上で手綱を握る大将軍ジョアンが、低くつぶやいた。
赤狼の毛皮を揺らし、鋭い眼光で左右の断崖を見上げる。
「上から狙われれば逃げ場がない。陣形を縦長に伸ばせ。常に頭上を警戒させろ」
「はっ!」
副官クルトがすぐさま伝令に走る。
その横へ、鮮やかな白銀の装飾を施した胸甲を身にまとうレイリアが愛馬を寄せた。
「大将軍。どのような伏兵が潜もうと、わたくしの剣で即座に露払いいたしましょう」
「頼もしいが、油断は禁物だ。モンブラン伯の部下には『山岳の虎』と呼ばれるティガスがいる。これほど絶好の袋小路を、あの男が見逃すはずがない」
老騎士ガルドが大盾を構え直し、渋い顔で周囲を見回す。
「嫌な予感がしますな……」
「同感だ。俺の勘も、最悪のタイミングを告げている」
後方で馬を走らせる騎士シャルクが、苦々しく空を見上げた。
――次の瞬間。
頭上の断崖から、空を引き裂くような地鳴りが響き渡った。
グラグラグラ~!!
「敵襲だ! 頭上、崖の上から大岩が降ってくるぞ!」
見張りの悲鳴と同時に、数メートル級の巨岩が砂塵を巻き上げて落とされた。
逃げ場のない狭い谷底に、死の雨が降り注ぐ。
「レイリア様をお守りしろ!」
ガルドが即座に大盾を前に掲げる。
だが、直撃すれば盾ごと押しつぶされるのは明白だった。
「下がっていなさい、ガルド!」
レイリアが剣を抜き放とうとした、その時――。
先頭の巨岩が前方の岩盤に激突。
不自然な回転を帯びた破片と大岩が跳ね上がり、理不尽な軌道を描いて後方のシャルクへと一直線に飛来した。
「チッ……なぜいつも俺のところへ来る!」
理不尽な不運。
しかし、シャルクの瞳から動揺は消え、一瞬で鋭い集中力が研ぎ澄まされた。
「ぬおぉぉぉ――させるか!!」
馬上から高く跳躍したシャルクは、背の重槍を旋回。
飛来する大岩の重心狙いすまして、寸分違わぬ一撃を叩き込んだ。
ガギィィィン!!
閃光と衝撃波がはじける。
精密すぎる突きで威力を殺された大岩は、谷の側壁へと深くつき刺さった。
それが奇跡的に、後続の落石を遮る天然の防壁となった。
「見事ですわ、シャルク士爵! 落石の勢いを殺し、こちらの遮蔽物にするなんて」
「狙ったわけじゃない! 必死だっただけだ! ……くそっ、上から射抜いてくるぞ!」
崖の上から、ティガスの配下である山岳部隊が大量の松明と矢を放ち始めていた。
「レイリア殿! 崖の上の投石陣地を叩く! ついて来られるか!?」
ジョアンは、勢いよく崖を駆けのぼっていく。カモシカのように馬を操る見事な手綱さばき。
「勿論ですわ! ガルド、参りますよ!」
レイリアは愛馬ミルキーウェイの手綱を絞り、崖に刻まれた細い獣道を風のように駆け登っていく。
「姫様……無謀です」
止めても無駄と知り、徒歩の老将も崖を登っていく。
◇
「そこまでです、蛮族ども!」
崖の上に飛び出したレイリアのバスタードソードが、舞い散る火花の中で閃いた。
閃光のごとき突きが、敵の武器を次々と弾き飛ばし、一瞬で投石陣地を無力化していく。
「ディムース! 資材置き場を狙え!」
谷底の影から、傭兵団『コヨーテ』の隊長レヴンが短く命じる。
強弓のディムースが放った太い火矢が、無音で空を裂いた。
――ドォォォォン!!
資材置き場が大爆発を起こし、敵の指揮系統は完全に崩壊した。
「素晴らしい手際だ……」
ジョアンは剣の血を払い、静かに息を吐いた。
「なるほど、不運を己の技でねじ伏せる槍使い。瞬時に敵陣を崩す凛とした女騎士。そして隙のない狙撃手というわけか」
この精鋭たちが揃っていれば、どんな険しい山も突破できる――ジョアンはそう確信した。
だが……、
ザイムの密かな視線と、智将ティガスが仕掛けた"本当の罠"は、この程度の落石などではなかった。
そうとは知らず、彼らは自ら、"完璧な罠"の深みへと足を踏み入れていたのだった。




