帝都の暗雲と赤き狼の出陣
「――ジョアン大将軍。其方のその手は、先帝陛下より賜った鋼をつかむためにあるのか。それとも、逆賊の首を刈るためにあるのか」
冷酷なまでに整った声が、張り詰めた謁見の間の天井に重く反響した。
新皇帝ライオス一世は、玉座の手すりに指先で、規則正しく琥珀色の宝石を弾いている。カチ、カチ、という乾いた音が、静寂を刻む秒針のように響く。
その瞳は、獲物の息の根を止めるタイミングを計る猛禽のように濁りがない。
ひざまずくジョアンの視界に入っているのは、磨き抜かれた黒大理石の床と、そこに映る皇帝の影、そして自身が身につける使い古された胸甲の傷跡だけだ。
「……臣、ジョアンの刃は、常に帝国の安寧と、陛下の大義のためにございます」
ジョアンは重々しく答え、深く頭を下げた。
肩を覆う赤狼の毛皮――かつて北方戦線で自らの手で討ち取った大狼の皮が、軋む音を立てる。首筋をつたう乾いた汗が、甲冑の襟元にしみ込んでいくのが分かった。
この謁見の間に漂っているのは、豪華な香炉から立ち上る高貴な香気ではない。鉄と、隠しきれない刃の匂いだ。
ライオスが先帝を討ち、謀反によって皇位に着いてから五年。
先帝の忠臣たちは次々と「不審な死」や「辺境への更迭」によって排除されてきた。
そして今、叩き上げの叩き叩きとして兵に絶大な人気を誇るジョアン・ルドラルプス大将軍
――“レッドウルフ”の番が回ってきたのだ。
ライオスはゆっくりと立ち上がり、階段を一段、また一段と下りてきた。高級な革のブーツが石床を打つ音が、死刑宣告のように迫る。
「南方の雄、モンブラン伯爵が私兵を集め、謀反の企てを進めている。……許しがたいことだ」
ライオスの分厚い手が、ジョアンの肩にある赤狼の毛皮に触れた。指先から伝わるのは、氷のような冷たさだ。
「其方に命じる。全軍を率い、即刻モンブラン伯爵領へ出兵せよ。謀反人を一人残らず討ち果たし、伯爵の首をこの玉座の前に捧げよ」
(あの智将で名高い……モンブラン伯が、謀反だと?)
ジョアンの奥歯がギシリと鳴った。
モンブラン伯爵は、先帝の時代から南方の国境を守り続けてきた重鎮だ。規律を重んじ、領民を愛する老将が、この時期に無謀な反乱を起こすはずがない。
何より、ライオスがジョアンに与えた条件が苛烈を極めていた。
「出撃は今宵。補給の引き継ぎは途中の湖水地方で行え。……ああ、忘れるところだった。帝都の防衛を空けるわけにはいかん。其方が連れていけるのは、直属の第一陣――五十騎のみだ」
わずか五十騎。モンブラン伯爵の領地を守る精鋭は、堅固な山岳要塞に籠もれば千を超える。
モンブラン騎士団(常備騎士:50人、領主直属の兵士:800人)、さらに有事に召集できる民兵が200~300人程度と聞く。五十騎の兵で正面から攻め込めば、全滅は免れない。
ライオスは最初から、モンブラン伯爵を打倒することなど期待していないのだ。
意のままにならないモンブラン伯爵と、兵に慕われすぎて邪魔なジョアン・ルドラルプス。
その両者をぶつけ合い、共倒れにさせることがライオスの真の狙い――“冷酷な計算”であった。
「……謹んで、命を拝受いたします」
ジョアンは伏したまま、声のトーン一つ変えずに答えた。
「頼みにしているぞ、“我が英雄たる狼”よ」
ライオスが背を向け、玉座へと戻っていく。その背中に向け、ジョンは静かに立ち上がった。
胸甲の裏側で、ジョアンの心は静かに、だが熾火のように熱く燃え上がっていた。
(死ねと言われて『はい』と死ぬほど、俺は賢い犬じゃない)
ジョアン・ルブラルプスの勝算は明確だった。
ライオスの張り巡らせた罠を見抜き、五十騎の部下を一人たりとも無駄死にさせず、モンブラン伯爵と接触して真相を確かめること。そして生きて帝都へ帰還し、この暴君の喉元に逆に刃を突きつけてやることだ。




