皇城、五年ぶりの帰還
冷たい夜気が、髪を揺らす。
五年だ。
この帝都を踏まない間に、城壁の匂いまでが、血の錆びたような澱みを帯びているように感じられた。
「――ピ、ピッピッ」
尖った羽音が闇に溶けた。
城壁の裏手に広がる険しい峡谷の崖っぷち。
その湿った岩肌にしがみつくレイリアの頭上で、青灰色のムクドリ――斥候役のアギルが微かに羽を震わせる。鳥の瞳が、暗闇の中で月光を浴びて宝石のように妖しく光った。
『敵影なし……このまま登って……』念話だ、レイリアにだけ伝わる。
アギルが斜め上を向いた瞬間、レイリアは細い指先を冷たい玄武岩の割れ目に深く突き入れた。爪の間から血がにじむが、痛覚はとうに麻痺している。
(見つかるな。……まだだ、ここで捕まるわけにはいかない)
氷のような夜の冷気が、熱を帯びた復讐心をかえって冷たく研ぎ澄ましていく。
数歩先では、相棒の青年アルティスは音もなく岩を登り切った。
無骨な革手袋が石擦れの音すらかき消し、彼は振り返ると手を差し伸べた。
「よく頑張ったな……お嬢」
「当たり前だ。それにしても、"我が家"に帰るだけで峡谷の上り下りとは」
すでに城内では、元帝国の情報部にいたクロードが、城の裏口に巡らされた魔力感知の罠をすでに無力化し終えているはずだ。暗殺専門の彼にとっては、潜入や破壊工作も付随的に手慣れたものなのだ。
◇
城内への侵入は、手筈通りだった。
クロードの手引きであらかじめ確保されていた、城の西翼にある古びた侍女の支度部屋。
窓の隙間から滑り込んだその場所は、古い蜜蠟と、微かに甘い香水の名残が混ざり合っていた。
レイリアは荒い息を整えながら、身につけていた埃まみれの旅装束を素早く脱ぎ捨てる。
男だった頃の感覚のまま動こうとして、やや高めでスレンダーな、しかし見慣れないほど滑らかな自分の肢体にふと足をとられた。
ライトゴールドのロングヘアがさらりと背中を流れ、ふくよかな胸の膨らみが布擦れの感触をいやでも意識させる。この五年間で、胸も成長していた。
美少女として完璧に作り変えられてしまった肉体は、女性として成長している。
復讐に燃える彼女の意志とは裏腹に、妙な熱を帯びて甘い香りを放っていた。
「ふう、落ち着け……私。今からは少し、男であったことは忘れよう」
肌にまとわりつくような冷えた空気を振り払い、用意されていた純白のエプロンと、紺碧の生地で仕立てられた城内侍女の制服へと身を包む。
だが、問題はここからだった。
豊かな胸元を締め付けるエプロンのリボンや、キュッと引き締まったウエストのラインは、かつて皇子だった彼女にとって羞恥心以外の何物でもない。
スカートの裾を慌てて整え、三つ編みにまとめた髪を、侍女特有の布の頭巾に無理やり押し込む。
鏡に映る姿は、どこからどう見ても、深夜の城内を慌ただしく行き交う使用人にしか見えない。
色香を漂わせた美しい名もなき侍女。
無駄に整った容姿のせいで、かえって危険な魅力を醸し出していることに、本人は気づいていないのか、それとも計算済みか。
「……準備はいいか、レイリア」
低い声が、暗がりから降ってきた。
重厚な近衛兵の銀色の鎧と兜を纏い、まるで本物の騎士のように身を固めたアルティスだった。
彼はほんの数分前、回廊の暗がりで一人静かに気絶させた近衛兵から剥ぎ取ったばかりの完全な武装を纏っている。冷たい鉄の匂いが、男の体温に温められて微かに立ち上っていた。
「ええ。クロードの言う通り、回廊の魔力障壁の周期は今が一番緩むわ」
レイリアは隠し持った短剣の柄を、侍女のエプロンの下にしっかりと押し込んだ。
その冷たい金属の感触が、ふくよかな胸の谷間に当たって妙な緊張感を煽る。
その感触と共に、五年の歳月が胸の奥で再び激しく焼き付けられた。
――父の仇。あの男、ライオスめ。
クロードが遠くの回廊で仕掛けた巧妙な攪乱のおかげで、煌びやかな装飾が施された皇帝の寝所へ至る扉の前には、不思議なほど人影がなかった。
まるで悪辣な運命すら、復讐の女神に加担しているかのように。
レイリアは銀のトレイに、熟成された琥珀色の蒸留酒を満たしたグラスを載せ、完璧なまでの従順な足取りでその重厚な大扉を押し開いた。
つづく




