月光のふたり、断崖絶壁へ跳べ
もう、逃げ場なんてなかった。
ごうごうと吹き荒れる炎と、鼻を刺す煙のなか。
ナディールは震える少年の手を強く引っ張り、大きな大理石の柱の陰へと滑り込ませた。
ナディールの正体は、ただの侍女ではない。
皇妃リリィから「いざという時は、レナース皇子だけを絶対に逃がしなさい」と命じられた、極秘の女魔導士だ。
燃えさかる炎の向こう側で、皇妃リリィが一度だけこちらを振り返る。
(行きなさい……絶対に、生き延びるのです)
声は聞こえない。だけど、唇の動きでハッキリと分かった。
皇妃様は、自らオトリになるつもりなのだ。
(その覚悟、絶対に無駄にはしない……!)
ナディールは冷たい決意を胸に抱く。
「……しーっ。声を出しちゃダメですよ、殿下」
ナディールは優しく、レナースの口元を指でふさいだ。
手に伝わってくるのは、ドキドキとした少年の鼓動。
この命さえ守りきれれば、帝国の未来は潰えない。
「行きましょう」
「離して、ナディール! 母上がまだあそこに!」
レナースは掴まれた手を振り払おうとする。
身体は恐怖で震えているのに、その足は逃げ道ではなく、炎のなかへ戻ろうとしていた。
「ダメです!」
「僕は皇子だ! 母上を置いて自分だけ逃げられるか!」
「だからこそ、生きてください! 皇妃様が命がけで作ってくれた道を、無駄にする気ですか!」
ナディールはレナースの手首を強く握り直し、炎に包まれた廊下を走り出した。
背後から追ってくる、敵の怒号と甲冑のすれ違う音。
転がったがれきを、ふたりは必死に飛び越えていく。
そのとき――がれきの陰から、敵兵の槍がナディールの背中を狙って突き出された!
「危ない!」
レナースが素早く短剣を抜き、槍を弾き飛ばす。
ガキンッ! と高い金属音が響き、そのまま刃をひるがえして敵の腕を切り裂いた。
「レナース様……!?」
「僕だって、守られてるだけじゃない!」
ふたりはさらに奥へと駆け抜ける。
「そっちは行き止まりだよ、ナディ!」
「いいえ……これでいいのです!」
廊下を抜けた先は、断崖絶壁に突き出たバルコニーだった。
吹きすさぶ冷たい夜風が、ふたりの頬を叩く。
眼下に広がるのは、月明かりすら届かない底なしの暗闇――『死の峡谷』。
ここから飛び降り、風の魔法で落下の衝撃を殺して生き残る。
一歩間違えれば二人まとめてペシャンコになる、命がけのギャンブルだ。
ナディールはレナースをぎゅっと抱きよせ、指先にバチバチと青白い火花を散らした。風の魔法を組み上げていく。
その時だった――
「ほう。かわいい小鳥が追い詰められたようだな」
腹を揺さぶるような、低く重い笑い声が響いた。
振り返ったナディールの目に飛び込んできたのは、返り血で真っ赤に染まった巨大な鎧。
反逆を起こした皇弟、ライオスだった。
その手に握られた大剣からは、先ほど殺されたばかりの皇帝の血が滴り落ちている。
「まさか、そんな高さから飛び降りるつもりではあるまいな?」
ライオスの後ろには、松明を手にした黒い甲冑の兵たちがずらりと並んでいた。完全に行き場は塞がれた。
レナースは震える手で短剣を構え、ナディールの前に立ちふさがる。
「叔父上……その剣で、父上を……!」
「そうだ。次はお前たちの番だ」
「僕を殺せ! その代わり、ナディールには手を出すな!」
戦おうとするレナースを制し、ナディールが逆に皇子をかばうように前へ出た。
「お優しいのですね、レナース様。ですが……殿下の命は、あなたひとりのものではありません」
退路はない。ナディールは奥歯を強くかみしめた。
「おとなしく皇子を引き渡せば、苦しまずに首を落としてやる」
ライオスが一歩、また一歩と近づいてくる。
ナディールは答えず、右手を力強く突き出した。
「――吹き飛びなさい!」
ドッ!! と渦を巻く暴風の刃がライオスへ襲いかかる!
床の石畳を巻き上げながら迫る必殺の一撃。
だが――ライオスは避ける素振りすら見せず、酷薄に笑った。
ライオスが無造作に大剣をひと振りする。
ジシュッ……。
水滴が熱い鉄板で弾けるような音がして、ナディールの放った強力な魔法は、黒い刀身に吸い込まれるように消え去った。
(魔法が……吸い取られた!?)
右腕を襲う魔力逆流の激痛に、ナディールの指先が痙攣する。
「無駄だ。我が手にある『絶魔の剣』の前では、どんな魔法も意味をなさん」
足音が近づく。
追い詰められたふたりの影が、壁に黒々と浮かび上がった。
(落ち着け……思考を回せ……!)
ナディールは高速で頭を働かせる。
(倒す必要はない。勝つ必要もない! この絶望的な状況こそが……最高の目くらましになる!)
狙うは、飛び降りて『事故死した』と敵に思い込ませること。
「……く、来るな!」
ナディールは恐怖に怯えるフリをして、わざとらしく大きく後ずさった。
冷たいバルコニーの柵が腰に当たる。
同時に、動きを邪魔するエプロンを引きちぎって谷底へ投げ捨て、残った全魔力を足元へ注ぎ込んだ!
カッと目もくらむような光がバルコニー全体を包み込む。
「悪あがきか!」
ライオスが苛立ち、大剣を大上段に振り上げた。
ナディールは攻撃を防ぐのを完全に捨て、レナースを強く抱きしめて耳元で囁く。
「レナース様。私を信じてくれますか?」
「ああ……行こう!」
「絶対に、手を離さないで!」
ふたりは光のなか、暗黒の谷底へと身を投げた!




