月光のふたり、断崖絶壁へ跳べ
猶予など、残されてはいなかった。
壁を砕くほどの業火の熱波と、硝煙の立ち込める陰で、ナディールは若き皇子の震える手を素早く引き寄せ、冷たい大理石の円柱の裏へと滑り込ませた。
皇妃リリィの側近として、皇子に教養や社交を教えながらも、真の使命は別にある。
いざという折には、この皇子だけを死地から逃がすこと。それこそが、侍女長の名を纏い宮廷に潜伏してきた女魔導士たる彼女に託された、唯一にして最後の密命であった。
燃え上がる紅蓮の幕の向こう側、炎を背にした皇妃リリィが、ふと一度だけナディールへと視線を投げる。
(行きなさい……そして、生き延びなさい)
声なき唇の動きが、はっきりと胸に刻まれた。
皇妃はわざと自分を囮にするつもりなのだ。その覚悟、無駄にするわけにはいかない。ナディールの深紫色の瞳が、照り返す火焔の光を吸い込んで、氷のように冷徹な光を宿す。
「……しーっ。お声を立ててはなりませぬ、殿下」
十七という若さには不釣り合いなほど静謐な声音で囁き、ナディールは皇子の唇を指先で優しく覆った。
掌に伝わるのは、早鐘を打つ純真な命の脈動。薄絹のナイトガウン越しに感じる少年の熱が、この胸に責務の重みを思い出させる。この命さえ繋ぎ止めることができれば、千年の帝国が紡いできた光は潰えない。
逆賊の目を欺き、死線を超えて峡谷の底へと落ち延びる。それこそが、ただの召使いに身をやつしてきた彼女の、果たすべき勝利の理であった。
「参りましょう」
「離して、ナディール! 母上がまだあそこに!」
レナースは掴まれた手を振りほどこうとした。震えてはいた。けれど、その足は逃げ道ではなく、燃え盛る通路を戻ろうとしていた。
「なりません!」
「僕は皇子だ! 母上を置いて、自分だけ逃げられるものか!」
「ならばなおさら、生きてください。皇妃様が命を賭けて作った道を、無駄になさるおつもりですか」
純白のエプロンの裾をたくし上げ、ナディールはレナースの手首を掴み、炎に包まれた回廊を走った。
背後を追う怒号と、甲冑が激しく軋み合う金属音が、容赦なく鼓膜を叩く。瓦礫と化した黒壇の長机や砕けた大理石を、ナディールたちは目を見張るような身ごなしで軽やかに飛び越えていく。
瓦礫の陰から、謀反兵の槍がナディールの背へ突き出された。
「危ない!」
レナースは隠し持っていた短剣を素早く抜くと、反射的に槍の穂先を受け流した。甲高い金属音。続く一閃が、兵士の籠手の隙間を正確に切り裂く。
「レナース様……」
「僕だって、守られているだけじゃない!」
二人は回廊を駆け抜ける。
「そっちは、行き止まりだよ。ナディ」
「いいのです、……これで」
外気へと身を躍らせた瞬間、氷刃のような夜風がナディールの火照った頬を叩き割るように撫でる。
たどり着いたのは、断崖に突き出た私用バルコニー。
眼下に待つのは、人界を拒む底なしの暗黒――「死の峡谷」と呼ばれる深淵であった。
バルコニーに敷かれた石畳は凍てつき、足を踏み入れた途端、何千尺もの虚空が放つ引力が全身の皮膚を粟立たせる。見下ろせば、月明かりすら届かぬ純然たる漆黒。
ここから身を投げ、風の魔力を幾重にも編んで落下の勢いを殺す――僅かでも術式が乱れれば、二人もろとも岩肌に叩きつけられて挽肉と化す、狂気の跳躍になる。
ナディールは皇子をぎゅっと抱きよせ、右手の指先を虚空へ向ける。細い白魚のような指先から、バチバチと青白い火花が弾け、空気が震え始める。風を紡ぐための起動術式が、瞬く間に組み上がっていく。
「……ほう。愛らしい小鳥が一匹、逃げ場を失って囀っていると見えたが。皇子の守り手がこのような愛らしい娘とはな。手折るには惜しいが、これも覇道ゆえだ」
腹の底を揺さぶるような、低く濁った哄笑が響く。
振り返ったナディールの視界を塞いだのは、鎧にべっとりと赤黒い返り血をこびりつかせた巨躯――反逆の皇弟、ライオスであった。
抜身の大剣の切っ先からは、今しがた弑逆した兄帝の血が、重々しく石床へと滴り落ちている。
「早い、どうして? 抜け道でも通ったか」ナディールは驚愕する。
「まさか、その高さから飛べるとでも思っていまいな?」
ライオスの背後には、松明を掲げた黒き甲冑の兵たちが十重二十重に連なり追いついてくる。
レナースは震える両手で短剣を構え、ナディールの前へ出た。
「叔父上……その剣で父上を殺したのか」
「いかにも。次はお前の番だ、レナース」
「ならば……僕を殺せ。この侍女には手を出すな」
ナディールが皇子を押しのけるようにして前に出た。
「お優しいことです。ですが、殿下の命は、すでに殿下お一人のものではございません」
峡谷から巻き上がる極寒の夜風が激しく、ナディールの白銀の長い髪を乱暴に乱す。
退路はない。絶壁の縁で、彼女は奥歯をきつく噛み締めた。
「大人しく皇子を引き渡せば、二人とも苦しまぬよう首を落としてやろう」
ライオスが一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。分厚い黄金の装甲が擦れ合う鈍い響き死刑台への足音そのものであった。
ナディールは応えず、右腕をライオスの方へと突き出した。紫色の双眸が、冴えた月光を捉えて苛烈に輝く。
慎ましいメイド服に身を包んだ少女の内から、突如として解き放たれた膨大な魔力。
「――消え果てなさい!」
真空の刃が、螺旋を巻く暴風となってライオスへと襲い掛かった。石畳を無残にめくり上げ、岩屑を巻き込みながら迫る必滅の一撃。兵たちが恐怖に顔を覆う中、ライオスは回避の素振りすら見せず、酷薄な笑みを深めただけだった。
ずん、と重苦しい圧力が空間を圧し潰す。ライオスが無造作に、血に塗れた大剣を振り抜いた。ただ「じゅっ」と水滴が灼熱の鉄板で弾けるような微かな音を立て、ナディールの放った高位魔術は、黒い刃の闇へと吸い込まれるように掻き消えたのだ。
暴風は霧散し、バルコニーには再び凍てつく夜風だけが吹き抜ける。魔力の残滓すら許さぬ、絶対の静寂。
(魔力を……、喰らわれた……あれは魔剣?)
右腕を駆け上がる魔力逆流の痛撃に、ナディールの指先が微かに痙攣した。
どれほど高邁な術を編もうと、あの忌まわしき剣の前では無に等しい。魔導士としての矜持を根底から打ち砕かれた瞬間であった。
「魔導の手練れであったか。だが、我が手にある『絶魔の剣』の前ではいかなる魔力も通用せぬ」
重厚な足音が、再び距離を詰める。兵たちの松明の火が、逃げ場のない二人の影を石壁に黒々と映し出した。
胸元のエプロンを握りしめる皇子の指が、絶え間なく震えている。
ナディールは細く、鋭く息を吐き出した。思考を極限まで加速させる。
(倒す必要はない。勝つ必要もない。この絶望的な追い詰められ方こそが……『最高の目くらまし』になるはず)
求める結末はただ一つ、皇子を伴って生き延び、逆賊に「墜落死した」と信じ込ませること。
(もし今、背後の闇へただ身を躍らせれば、ライオスほどの男だ、崖下を覗き込み、生き残るための減速術を察知して大剣を投げ下ろすか、あるいは矢の雨を降らせるに違いない。なんとしても欺かなければならない。これは不可抗力による、無残な転落死であると……)
「……ち、近寄るな!」
ナディールは怯懦に満ちた悲鳴を装い、わざとらしく大きく後ずさった。腰のあたりに、石造りの欄干が冷たく当たる。
同時に、動きを縛る返り血塗れのエプロンを乱暴に引きちぎり、闇の底へと放り捨てた。露わになった深緑の生地が、夜風を孕んで激しく波打つ。
彼女は残された全魔力を、両足の裏――大理石の床との接地点へと注ぎ込んだ。目も眩むような光の奔流が、彼女の足元からバルコニー全体へと広がっていく。
「悪あがきか、魔女め。その光ごと両断してくれる!」
目くらましの抵抗と断じたライオスが、苛立ちを露わに剣を大上段へと振り上げた。
空気を断ち割り、魔を呑み込む漆黒の太刀筋。
ナディールは防ぐことを完全に放棄し、皇子を庇うようにその身を丸め耳元で囁く。
「レナース様。私を信じてくださいますか」
「ああ……行こう」
「では、決して手を離さないで」
レナースは震える指で、ナディールの手を強く握り返した。




