遠き夜明けへの飛翔
轟然たる破壊音が夜を震わせた。
絶魔の剣が叩きつけられたのは、ナディールの肉体ではない。極限まで魔力を充填され、すでに臨界点に達していた足元の大理石の床そのものだった。
反魔の刃と高密度の魔力が激突し、凄まじい物理的反発の爆発を引き起こす。
激震と共にバルコニーの土台が粉々に爆砕し、石の床が蜘蛛の巣のように砕け散った。
「なっ……!?」
体勢を崩したライオスが虚空へ手を伸ばすが、届かない。
足場を完全に失ったナディールと皇子の体は、無数の石塊と共に、漆黒の深淵へと真っ逆さまに呑み込まれていった。
耳を聾する風切り音が、世界のすべてを掻き消した。落ちていく、と認識した瞬間に天地が反転する。
重力に逆らうその力、無数の空気の塊が、容赦なくその全身を打ち据えたのだ。
ナディールが空中で紡ぎ出したのは、優美な風の天幕などではなかった。そのような魔力の痕跡を残せば、ライオスは即座に察知し、魔剣を投げ落として風ごと断ち割っただろう。
彼女が放ったのは、不規則に、そして恐るべき速度で乱舞する、極小の乱流の群れであった。
「……っ、あああああっ!」
吹き荒れる乱流がナディールと皇子を乱暴に包み込み、落下の軌道を複雑に歪めていく。
二人は右へ、左へ、上方へと不規則に弾かれ、恐るべき運動量を削ぎ落としながら峡谷の底へと「叩きつけられて」いく。それは生還のための加護というより、肉体を擦り潰す寸前の、あまりに乱暴な制動であった。自然落下との違いはほとんどない。
腕の中の尊い命を守り抜くため、ナディールは剥き出しの岩肌や、降り注ぐ石塊へと自らの背をあえて激突させた。衝撃でさらに落下の勢いを殺す。背骨がきしみ、肋骨に鋭い亀裂が走る激痛に、視界が黒く染まっていく。
意識が闇に呑まれかける刹那、ナディールは最後の一節を、血の滲む唇で紡いだ。
「――水よ(ア・ク・ア)」
どぉぉぉぉぉん~と。
耳を劈く重厚な爆鳴が響き渡った。
それは岩に激突した音ではない。峡谷の最奥を流れる、凍てつく大濁流――『大帝河』へと、二人が超高速で突入した音であった。
入水の瞬間、水の表面張力を霧散させて衝撃を殺す『水の空洞』を創り出していたものの、時速数百キロの落下の質量は凄まじく、ナディールの意識はそこで完全に途絶えた。
漆黒の水流が二人を呑み込み、激しく下流へと押し流していく。
遥か頭上の崖の上では、逆賊の即位を祝うかのように、白亜の皇城が紅蓮に染まっていた。
しかしその狂乱の焔も、冷たい水底までは決して届くことはない。
誰もが、皇子と侍女は落下の衝撃で肉塊となり果てたと信じて疑わなかった。新たな皇帝を名乗るライオスもまた、微塵の疑念も抱いてはいなかった。
けれど。
冷たい飛沫と砂の感触に、ナディールは荒い息を吐きながら意識を取り戻した。
「ごほっ、あぁ……」
飲み込んだ水を吐き出し、彼女は凍てつく河原の砂の上へと這い上がった。
全身を裂くような激痛。それでも彼女は、抱き締めていた皇子の身体を、砂地の上にそっと横たえた。
「殿下。殿下、どうか……」
蒼白に冷え切った皇子の胸元に、ナディールは濡れた耳を押し当てる。
水音の向こう側、静寂のなかで。
トクン。
……トクン。
微かではあるが、途切れることのない確かな鼓動が響いていた。
ナディールの大きな紫の瞳から、堪えきれぬ涙が零れ落ち、皇子の冷たい頬を濡らす。
生きていた。自らの命を秤にかけた無謀極まりない賭けに、彼女は勝ったのだ。
「……ふ、ふ……あはっ……」
激痛と、安堵と、そして世界を覆う理不尽への消えぬ反骨が混ざり合い、掠れた笑声が唇から溢れた。
ずぶ濡れになり、泥と血に汚れたメイド服の襟元を、ナディールは残った力で乱暴に引き裂いた。
露わになったフォレストグリーンのワンピースは、冷たい月明かりを浴びて深遠な輝きを放っている。乱れた髪が濡れて頬に張り付いていたが、その瞳の紫色は、夜空のどの星よりも冴え冴えと、強い意志を宿して燃えていた。
ナディールは眠り続ける皇子をそっと抱き起こし、震える足で冷たい河原の小石を踏み締めた。
「……参りましょう、殿下。いいえ――レナース様」
もう従順な侍女ではない。ここに立っているのは、正統なる血筋を守り、偽りの皇帝を玉座から引きずり降ろすその日まで牙を研ぎ続ける、一人の女魔導士であった。
もう一度だけ、遠く夜空を焦がす城の姿を冷ややかに見据える。
いつか必ず、奪われたすべてを取り戻す。その横顔に、もはや惑いも絶望もなかった。
冷え切った峡谷の底から、新たな夜明けを告げる冷涼な風が、静かに吹き抜けていった。




