魔熊との遭遇
この野盗たちは、獲物を狙って襲撃してきたのではない。
背後から迫る『何か』から逃げるために、通り道を塞いでいたアルティスたちを力任せに退かそうとしていたのだ。
ズシン、と。
足元の腐葉土が、大きく跳ねた。
「……レイリア、下がれ!」
アルティスの背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。
裏社会で数々の修羅場を潜り抜けてきた直感が、けたたましい警鐘を鳴らしている。
木々が激しく軋む音がした。
太さ数十センチはあるはずの針葉樹の幹が、まるであたりの枯れ枝でも折られるかのように、次々とへし折られていく。
メキメキという破壊音と共に、森の奥から濃厚な獣の臭いが噴き出してきた。
血と、腐肉と、獣脂の入り混じった、むせ返るような死の臭い。
「ヒィッ……! き、きたぁああ!!」
逃げ遅れた野盗の一人が、悲鳴を上げて駆け出そうとした。
次の瞬間。
薄闇の中から突き出された丸太のような巨大な腕が、男の上半身を軽々と薙ぎ払った。
ボキボキと無数の骨が砕ける音が響き、男の体が紙くずのように宙を舞って、遠くの木の幹に激突して動かなくなる。
血の雨が降り注ぐ中、夕陽を背にして『それ』は姿を現した。
見上げるほどの巨躯。黒光りする鋼のような毛皮。赤く爛々と輝く双眸。
それは、ただの熊ではない。
森の生態系の頂点に君臨する、圧倒的な暴力の権化たる巨大な魔獣だった。
熊のような身体に鳥類のような嘴や爪。恐らく魔導で造られたキメラの一種だろう。
分厚い獣の顎から、先ほどの野盗のものらしき千切れた腕が、ボトリと泥の上に落ちる。
「冗談……キツすぎるぜ」
アルティスは刃こぼれだらけのなまくら刀を構え直し、ひきつった笑みを浮かべた。
◇
鼓膜を破るような咆哮が、鬱蒼とした針葉樹林の空気をビリビリと震わせた。
腐葉土を蹴り立て、黒鋼の毛皮を持つ魔熊が突進してくる。
「チッ……!」
アルティスは泥をけり、横殴りに迫る丸太のような前腕へ、なまくら刀を叩き込んだ。
刃を滑らせて威力を逸らし、反撃の隙を作る
――裏社会で磨き抜かれたその目論見は、しかし、最悪の形で裏切られた。
――ガァンッ!!
甲高い破砕音。手首の骨が軋むほどの激烈な衝撃。
魔熊の異常に硬質な毛皮に弾かれ、酷使に耐えきれなくなった安物の剣身が、根元から無惨に砕け散ったのだ。火花と共に、ひん曲がった鉄の破片が泥濘へと散らばる。
「嘘だろ……」
残されたのは、手汗に塗れた革巻きの柄だけ。
丸腰となったアルティスティスの胴体を両断すべく、魔熊の凶爪が翻る。
死の風が頬を撫でたその瞬間。
「退きなさい、アルティス!」
背後から飛び出したレイリアが、泥に塗れた深緑のドレスを大きく翻し、アルティスと魔熊の間に割り込んだ。
彼女の細長剣が、夕闇を切り裂いて真紅の軌跡を描く。
「灰燼に帰せ――!」
烈火の魔力が刀身から爆発的に放たれた。
渦巻く業火が魔熊の巨体を呑み込み、周囲の針葉樹の樹皮を瞬時に炭化させる。肌を焦がすほどの熱風と、酸素が燃焼する耳障りな轟音。
完璧なタイミングだった。レイリアの魔力は、侯爵令嬢という華奢な器には到底収まりきらない、皇族特有の規格外の代物だ。確実に仕留めた。そう思った直後だった。
「グルルルゥ……」
もうもうと立ち込める煙を切り裂き、赤く濁った双眸が不気味に発光した。
焦げる臭いは充満しているが、魔熊は立ち止まらない。
黒鋼の毛皮は魔法の炎を表面で散らし、分厚い脂肪の鎧が致命傷を完全に阻んでいたのだ。
「……嘘でしょう、私の魔法が通らない?」
レイリアの美しい顔が驚愕に歪む。
次いで、魔熊の咆哮と共に振り下ろされた豪腕が、レイリアの剣を力任せに弾き飛ばした。
火炎を纏っていた細剣が、手首を弾かれた衝撃で彼女の手からすっぽ抜け、数メートル先の泥の中へ深く突き刺さる。
「きゃあっ……!」
体勢を崩したレイリアは、泥水を吸って重くなったドレスの裾に足を取られ、無防備な背中から泥濘へと倒れ込んだ。
跳ね上がった泥が、彼女の白い頬を汚す。
荒い息遣い。震える肩。
迫り来る魔熊の圧倒的な影が、倒れ伏すレイリアを完全に覆い隠した。
絶体絶命。
遊び人として飄々と、そして自堕落に生きてきたアルティスにとって、他人のために命を懸けるなど、割に合わない三流の喜劇でしかないはずだった。
――だが。
(……冗談じゃねえ)
こんな薄暗い森の泥濘で、獣の餌になっていい"女"じゃない。
あいつが玉座を取り戻すまで、俺が、俺の剣があいつの矛となり盾となるって決めたんだ。
「……アギル!!」
アルティスは残された剣の柄を放り捨て、足元のぬかるんだ泥と石ころを両手で無造作に鷲掴みにした。
「ピィッ!」
上空の枝葉を旋回していたアギルが、主の意図を察して鋭く鳴く。
「上から探れ! 魔法を弾くあのふざけた毛皮にも、必ずどこかに『綻び』があるはずだ!」
叫ぶと同時、アルティスは倒れたレイリアの前に立ちはだかり、魔熊の顔面に向けて両手の泥を全力で投げつけた。
ベチャッという不快な音と共に、目と鼻を泥で塞がれた魔熊が、苛立ちに任せて盲滅法に爪を振り回す。
「アルティス!? あなた、武器もないのに!」
レイリアの悲痛な声が響く。
アルティスティスは泥だらけの顔で不敵に笑い、牙を剥く巨大な獣に向かって両手を広げた。
「心配すんな。俺の『黄金の剣』が手元に戻るまで……お姫様の盾くらいなら、この身体で十分だ!」
木々をなぎ倒し、殺意に満ちた獣の顎が、丸腰のアルティスへ向けて迫り来る――。




