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湖のひみつ

――翌朝。


水草の泥臭さと、煮やされたコールタールの異臭。

朝靄に煙る湖畔の空気を突き破ったのは、いつも響く甘い衣擦れの音ではなく、木橋を激しく踏み鳴らす力強いブーツの音だった。


何層にも重ねられたシルクタフタの重厚なドレスも、揺れるペチコートも、今日のレイリアにはない。


代わりに彼女の身を包むのは、冷たい湖風を弾く深い群青色のベルベットで仕立てられた、タイトな乗馬服。コルセットで極限まで締め上げられた細い腰、胸元で鈍い光を放つレーク侯爵家の銀ボタン。


泥一つ飛んでいない最高級のカーフスキン・ブーツが、一歩を踏み出すたびにシュッ、シュッと艶やかな音を立てる。


レイリアの頭の中にあったのは、湖の「どこが浅瀬で、どこに岩礁があるか」を知り尽くした地の漁師たちのことだ。城壁から巨大な漁網を投げ落とし、狭い橋を渡る敵を絡め取る。小型ボートで帝国の大型船を座礁へ誘導する——水上の死線を描く軍略だった。




「ドレスじゃないぞ。今日こそ船に乗せてもらおうか」


凛とした声が、白い吐息となって冬の空気に溶ける。


視線の先、船着き場に揺れる小船の甲板では、作業着姿の少女——ミレイユがタールまみれの刷毛を握っていた。

彼女はレイリアの豪奢な乗馬服を一瞥すると、ひび割れた荒い指先で自身の腰元を無造作に叩いた。


そこには、亡き父から受け継いだ湖水地方船団の形見——黒光りする角笛が提げられている。長年の酷使で滑らかになった表面を撫でながら、ミレイユは鼻で笑った。


「本気のようね。でも、女子供は乗せないわ」

「貴様だって女じゃないか」

「アタシは船団長だ。親父の跡を継いで、この湖の荒波も、飢えた水夫たちの腹の虫も束ねているんだよ」


ミレイユは刷毛を木桶に投げ込み、タールで汚れた手を麻布で乱暴に拭った。

「侯爵家のお嬢様のお遊びにつきあうほど、こっちの船は暇じゃない」


角笛がカチャリと冷たく鳴る。


だが、レイリアの足は一歩も引かない。

「お遊びではない! 今の皇帝ライオスは、この湖水地方を直轄領に狙っている。軍勢がいつ雪崩れ込んでくるか分からない!」


冷たい風が結い上げた金髪を揺らし、レイリアは距離を詰める。


「我がレーク侯爵家は平和主義ゆえ、常備軍は皆無に等しい。帝国の重装騎士団が攻め込めば、我が領地は一日で灰燼に帰す。……だからこそ、水上なのだ! 帝国の鉄くずどもをこの湖に誘い込み、地の利を活かす。貴様の角笛の合図ひとつで敵を討つ秘策がある!」


熱を帯びた叫びに、ミレイユの顔から嘲笑が消えた。代わりに浮かんだのは、過去の惨劇を知る者特有の、暗く重い怒りだった。


「……戦を知らないお嬢様が、地図の上の駒遊びみたいに言ってくれるじゃないか」


ミレイユの声が低く唸る。タールの匂いに混じり、火薬と血の焦げる幻臭が鼻腔を刺す。


「騎士を水に沈めりゃ勝ち? その間に陸に残された領民はどうなる! 家を焼かれ、畑を荒らされ、血を流すのはいつだって名もなき平民だ! 領民の苦労も平和のありがたさも知らないくせに、簡単に戦を口にするな!」


静寂が落ちた。

張り詰めた氷のような沈黙の中、レイリアは静かに目を伏せた。


「……五年前の戦で、街道はひどい有様だった」

掠れたレイリアの声に、ミレイユがピクリと眉を動かす。


「泣き叫ぶ女や子どもを前に、私は何もできなかった。せめてこの手で埋葬するくらいしか……。あの時の匂いも、遺体の重さも、まだこの手に残っている」


「……お嬢様が、そんなことを?」


「二度と領民を見捨てたくない。戦を望んでいるのではない。守りたいだけだ」


レイリアは少しだけ言葉を詰まらせ、ぽつりと本音をこぼした。

「それに……私には、戦の話を対等にできる友達がいない。“侯爵家の娘”としてしか見られないから、怖くても、怖いとさえ言えない」


ミレイユの息が止まる。その言葉は、あまりにも自分と同じだったからだ。


「……あたしもだよ。誰も彼も“船団長”としか見てくれない。弱音を吐けば、船団が崩れるからね」


二人の間に流れる空気が、微かに変わる。


レイリアは深く息を吐くと、おもむろに桟橋の縁へと足を踏み出した。

ザシャッ。

ぬかるんだ黒い泥水が、磨き上げられた最高級の革ブーツを容赦なく汚す。

「この湖を愛していた女魔導士がいた。帝都で出会ったその人は、いつもこの湖の美しさを語ってくれた。いつか、ここで暮らしていきたいと。その人のためにも、ここを守りたい」


「まさか……その人って、ナディールじゃないのか!?」

ミレイユが目を見開く。

「私が幼い頃、干ばつから村を救ってくれて『聖女』と呼ばれていた旅の魔導士……あなた、ナディールを知っているの!?」

「少し……ね。だからこそ、私はこの湖が好きだ。決して、ただの戦場にはさせない」


「想いだけではなにも叶わないわ。頭で考えているだけでも何もわからない、お嬢様に出来ることなんてない」


「……父上にも、同じことを言われた」

レイリアは自分の白魚のような美しい手を見つめ、苦く笑った。「私はまた、人間ではなく数字と兵だけを見ていたらしい」


「だったら帰る?」


「いや。だからこそ教えてほしい。戦う方法ではなく、まず、この湖で暮らす人々のことを」


言い切ると同時に、レイリアは船を繋ぎ止める太く粗い麻ロープを、絹の手袋も嵌めずに素手で強く握りしめた。


「なっ……何してんのさ!?」


麻のトゲが容赦なく白い皮膚を切り裂き、鮮血がロープに染み込んでいく。


さらにレイリアは甲板へ身を乗り出し、塗りたてのコールタールがべったりと付着した木板に、その美しい群青色のベルベット服を深く押し付けた。


最高級の生地が、ドロドロの黒い油に塗れ、取り返しのつかない惨状へと変わっていく。


痛覚と汚れ。王侯貴族が何よりも忌み嫌うはずの二つを自ら抱きしめ、レイリアは血の滲む掌を広げた。ひび割れた笑みを浮かべ、ミレイユの目をまっすぐに見つめる。


「血を流す覚悟なら、私にもある! 領民の家が焼かれる前に、私がこの身を盾にする!」


波の音が二人の間を吹き抜ける。


ミレイユは、コールタールで台無しになった服、血の滲む手、そして決して逸らされない強い瞳を交互に見つめた。やがて、握りしめられていた角笛からふっと力が抜ける。


「……私は、侯爵家の娘である前に、この湖の民だ。あなたと同じ、この土地で生きている一人の人間なんだよ」


身分という鎧を完全に脱ぎ捨てたレイリアの言葉に、ミレイユの荒れた唇から、呆れたような、けれど弾むような笑いが漏れた。


「……バカね。せっかくの綺麗な服が台無しじゃない」


ミレイユは丸めた麻布を、レイリアの顔に向かって乱暴に投げつけた。それを受け止めたレイリアに向かって、腰の角笛をポンと叩いて見せる。


「実力がすべてよ。船の上じゃ男も女も関係ない。……もっとも、あたしも女子供だけどね」


「ふっ……では、女同士だから乗せてくれるか?」


「それは違うな」

ミレイユは照れくさそうに鼻を擦り、ニッと笑った。

「——友達同士だから、乗りなよ、レイリア!」



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