五年間、女として暮らした元・皇子
――湖水地方 レーク侯爵領
「レイリア! 我が声が聞こえておらんのか!」
鋭い怒声が執務室の重厚な空気をつんざく。
レイリアが投げた一本の羽根ペンが描いた放物線が、石造りの壁にトォンと甲高い音を立てて突き刺さった。
「勉強ばかりで疲れましたわ。少し、剣の稽古をしてきてもよろしくて?」
「お前もここに来て五年。少しは女らしくならないものかの。剣だけで領地は守れると思うなと、昨日も言うた!」
「はいはい、お父様。もう耳にタコができておりますわ」
「 麦一石の値段も、泥に塗れて耕す農民の苦労も知らぬ者が、どうして領主の務めを果たせようか。そのような無知のままでは、戦が起きるより先に、腹を空かせた領民とともに領地そのものを失うことになるぞ!」
「今年の小麦収穫量は昨年比で一割減。冬までに北岸の三村へ備蓄を回す必要がありますわ」
「分かっておるなら、なぜ真面目に聞かん!」
「数字は分かります。でも、数字ばかり見ていたら息が詰まりますの。では、これで……」
「レイリアぁぁ!」
雷を落とす養父・レーク侯爵の鋭い視線を受け止めながら、レイリアは優雅に椅子の背もたれから立ち上がった。
象牙色の上質な絹のドレスがさらりと音を立てる。
今日の彼女の目的は、ただひとつ。
この息の詰まる羊皮紙の牢獄を抜け出し、濡れた風が吹き抜ける湖畔で、自由な空気を胸いっぱいに吸い込むことだ。
それさえ果たせれば、明日の説教が二倍になろうと知ったことではない。
「本日の講義はここまでにしていただきますわ。私の頭の倉庫は、もう今年の小麦の予想収穫量で溢れかえっておりますの」
「待て、まだ終わっておらん! おい、レイリア!」
背後で響く侯爵の怒号を背中に受けながら、レイリアは一礼もそこそこに執務室の重い木製扉をすり抜けた。
長廊下の絨毯を跳ねるように進み、自室へと飛び込む。
「計算ばかりで領地が守れるなら、騎士団なんていらないさ」
髪を束ねていたピンをすべて引き抜き、ライトゴールドの長髪をざっくりと後頭部で結び直す。足元を丈夫な革ブーツで固めると、窓枠に手をかけた。
彫刻の美しい白い窓を開け放つと、一気に冷涼な湿り気を帯びた風が吹き込み、彼女の頬を打つ。
眼下に広がるのは、太陽の光を浴びて銀色に輝く巨大な湖だ。
水面にはいくつもの小さな小舟が浮かび、湖畔の桟橋では人々が忙しなく動き回っている。
あそこには、帳簿の数字には決して書かれていない「生きた世界」がある。
「待っていろよ、私の時間。おっと……さすがに窓から跳ぶのは、令嬢らしくないな」
と持ち上げたスカートの裾を下した。
レイリアは自室の扉をこっそり開けると、給仕たちに見つからぬよう影から影へと身を躍らせた。
城の裏手に回ると、冷たく湿った石造りの階段をそっと駆け下りる。
トントン、と石を叩く軽快な音だけが、薄暗い通路にこだました。
階下の小さな勝手口を押し開けると、視界が一気に開けた。
◇
生臭い魚の匂い、乾いた網の擦れる音、船乗りたちのダミ声。
そして何より、肌を刺すような湖水の冷気。
城の人工的な香水の匂いとは対極にある、生き生きとした青くさい風がレイリアの全身を吹き抜けた。
「ふぅ……生き返る!」
レイリアは大きく腕を伸ばし、深呼吸をした。
城の裾野に広がる桟橋は、朝の活気に満ちあふれていた。
漁から戻ったばかりの小舟がひしめき合い、獲れたての魚が入った木箱が威勢よく叩きつけられている。
ドレス姿のレイリアを、いかつい男たちがちらりと見たが、この港では身分を気にする者など誰もいない。彼女は足取りも軽く、木板が軋む桟橋の奥へと進んだ。
その時、甲高い木の打撃音と、ハッキリとした少女の声が風に乗って聞こえてきた。
「ちょっと! そこ、ロープの結び方が甘いよ! 次の波で解けたら、荷物が全部沈んじゃうじゃない!」




