剣聖と呼ばれた男・ラスティーソード
手首をつかまれたまま、屈辱と絶望にレイリアが唇を噛んだ
——その時だった。
ランタンの灯りを明々と照らし、豪奢な馬車が駆け付けた。
屈強な護衛を連れた商人だ。「どけどけ、不良ども。ラッザン商会のお通りだぜ」
舌打ちをして逃げていく不良たち。
馬車の中から現れた恰幅の良い行商人は、レイリアを見るなり、大げさに目を丸くして手を差し伸べた。
「おお、なんとお可哀想に! こんな夜更けに、か弱きお嬢さんが一人で……さぁ、私の馬車へ。次の町までお送りしましょう」
——数時間後。
レイリアは、立派な装飾が施された馬車のふかふかなシートに身を沈めていた。
(……助かった。これで体力の消耗を抑えつつ、次の町まで距離を稼げる)
差し出された温かい淹れたての紅茶を口に含み、レイリアは安堵の息を吐く。
皇宮で嗜んでいたものには劣るが、冷え切った今の細い身体には、その甘い香りと温もりが何よりだった。
向かいの席に座る行商人は、人の良さそうな笑みを浮かべながら、レイリアの頭からつま先までをねっとりと舐め回すように観察していた。
「見事な黄金の髪だ。[[rb:碧色 > エメラルド]]の瞳は珍しい。上等なドレスを着せれば、さぞかし見栄えがするでしょうなぁ」
(こいつは……どこぞの貴族にでも売れば、金貨千枚は下らない至高の芸術品だぜ)
「ん? なにか言ったのか?」
「いえいえ! お美しいお嬢さんだと言ったのですよ」
「そうか……なら、いい」
短く返し、紅茶のカップを置いた。
(気品が外見に滲み出るのは当然のこと。この商人も身分の高さに気づいたか。しかし、皇子だとは夢にも思うまい)
レイリアの思考は、あくまで「男」であり「皇子」のままだった。
男たちが自分の細い首筋や華奢な身体に、どのような『欲望』や『商品価値』を見出しているのか、その恐ろしさに全く思い至っていない。
「ピィッ! ピピピィッ!!」
突然、傍らのクッションで休んでいたアギルが狂ったように羽ばたき、行商人の顔めがけて突撃した。
「おわっ!? なんだこの鳥は!」
「こら、よせアギル。恩人に対して失礼だぞ」
レイリアは慌ててアギルの小さな身体を両手で包み込んだ。
しかしアギルはその手の中で必死にもがき、鋭いクチバシで彼女の指を突き、馬車の外へ逃げるよう何度も首を振る。(ちっ、言葉が出ない。鳥化して来ている……)
(逃げてください、レナース様! こいつらは貴方を『女奴隷』として売り飛ばす気です!)
しかし、アギルの悲痛な叫びは、ただの小鳥のさえずりにしか聞こえない。
「どうした? お前も疲れて気が立っているのだろう。ほら、少し眠るといい」
レイリアが優しく撫でると、アギルは絶望したように羽を休めた。
その様子を見て、行商人はニチャリと歪んだ笑みを深める。
「ええ、そうですとも。ゆっくりとお休みなさいませ。……目を覚ました頃には、貴女の『新しいご主人様』のもとへ到着しておりますからね」
「な、なんだと……? 新しい、ご主人……?」
聞き返そうとしたレイリアの舌が、もつれた。
視界が急激にぐにゃりと歪み、全身の力が水のように抜けていく。
空になった紅茶のカップが足元に転がり落ち、鈍い音を立てた。
(睡眠薬、だと……? 莫迦な、私は、騎士団の毒物耐性訓練にも……)
思考回路は冷静に状況を分析しようとするが、新しく作り変えられた「か弱き美少女の肉体」は、微量の薬にあっさりと屈服し、意識は深い闇へと沈んでいった。
薄れゆく意識の中、レナースの耳に鋭い風切り音が響いた。
「ピィイイイイッ!!」
それは小鳥の鳴き声ではなく、主君を守るため剣を抜いた騎士の咆哮だった。
アギルは自らの小さな身体を弾丸のように飛ばし、行商人の眼球めがけて特攻した。
「ぎゃあっ!? 目が、俺の目がぁっ!」
顔面を血に染めてのたうち回る商人。
護衛たちがようやく小鳥を生け捕りにし、籠に入れる。
しかし、馬たちのいななきと共に、馬車が大きく蛇行する。凄まじい衝撃と傾き。
馬車が横転し、一行は街道に投げ出される。
草むらに横たわるレイリアの美しい肢体を見つめる行商人。「むむっ、たまらねえ。味見させてもらうぞ」
暴漢たちがニヤニヤと囲みを狭め、レイリアのドレスをめくり上げ、身体に手を伸ばそうとした。
――その時だった。
「――なにをやっとるか、けしからん!!!!」
闇夜の空気を震わせるほどの、雷鳴のような喝声が響き渡った。
地鳴りのような足音とともに、暗がりから一人の男が歩み出てくる。
頬に刻まれた無数の傷跡と、人を気圧すような鋭い眼光。そして何より、腰に差した二本の太刀。
それは、帝国最高峰の剣士であり、かつて皇子レナースに剣を叩き込んだ厳しい師匠。
二刀流の『剣聖』ラスティソード伯爵。
「なんだぁ、こぉら! 下がってろ粗野なオッサン! 俺たちは荷物を運んでいるだけだ。俺たちはな、ライオス陛下の御用達なんだよ」
威張り散らそうとした番人の隊長に向かい、ラスティソード伯爵は不快そうに眉をひそめた。
「黙れ。弱き乙女を大勢で囲み、暴力を振るうなど帝国の面汚し。……いや、帝国の御用達を名乗るのもおこがましい下衆どもめ」
「てめえ、誰に向かって口を叩いて――ぶへっ!?」
護衛たちが剣を抜こうとした瞬間だった。
視界がブレるほどの神速。
ラスティソード伯爵は腰の刀を抜きもせず、鞘のまま隊長の溝おちに強烈な一撃を叩き込んだ。
「ガハッ……!?」
隊長は白目を剥き、崩れ落ちる。
「た、隊長!? 野郎、やっちまえ――!」
襲いかかってくる兵士たちに対し、ラスト伯爵は溜息を一つ吐くと、風のごとき足さばきで間合いを詰めた。
鯉口を切ることもなく、左右の鞘を縦横無尽に振るう。
みぞおち、顎、手首、膝裏。
まるで舞を踊るかのような無駄のない動きで、あっという間に5人、6人が悲鳴を上げて地面に転がった。
圧倒的な「剣聖」の武。レナースが何年もかけて追いつこうとしていた、憧れの強さがそこにあった。
わずか数十秒で、護衛たちは全滅した。
「ふん。骨のない奴らだ」
ラスティソード伯爵は鼻を鳴らし、腰の鞘の位置を整えると、ゆっくりと振り返った。
その鋭い眼光が、ヘたり込んだまま胸を上下させているレイリアと、小鳥の姿を捉える。
(ひっ……! バレる……!? 師匠には、僕の癖も体の使い方もすべて見抜かれている!)
レイリアは咄嗟に着慣れぬドレスの裾を強く握りしめ、上目遣いに師匠を見上げた。
(ここは……なんとしても。女の振りをするしかない!? )
ラスティソード伯爵は、可憐な金髪の美少女、レイリアの顔をじっと見つめると、むすっとした顔のまま近づいてくる――。




