第一話「煌日」③
「駄目だ」
父親は即答した。
「だから、まだ何も――」
「赤角猪を狩りに行くんだろう」
「聞いてたのかよ」
「村中に聞こえる声で話しておいて何を言ってる」
ロディは商人を振り返った。商人は素知らぬ顔で《煌日》を布に包んでいる。助け舟を出す気はないらしい。
「別に無茶するつもりはねえよ。勝てるようにしてから戦う」
「それを無茶する奴はみんな言う」
「じゃあ何て言えばいいんだ?」
「行かない」
「それじゃ猪が狩れねえだろ」
「狩るなと言ってるんだ!」
話が進まない。
ロディは腕を組み、父親の顔を見る。
怒っている。それ以上に心配しているのも分かった。
当然だろう。
父親からすれば、畑仕事をしていた息子が武器商人と話しただけで、突然、人を殺した魔獣を狩ると言い出したのだ。逆の立場ならロディだって止める。
だからといって諦める気もなかった。
「親父。何年か前に赤角猪が畑まで来ただろ」
父親の眉が動く。
「……それがどうした」
「あのとき、どこから入ってきた?」
「北の林だ」
「追い払ったときは?」
「西へ逃げた」
「なんで?」
「なんでって……」
父親が言葉を止める。
村の北側には林があり、西側には川へ向かって緩く下る土地がある。東と南は開拓が進み、畑と柵が広がっていた。
「お前、まさか村まで誘い込む気じゃないだろうな」
「そんなことしたら俺が猪より先に親父に殺されるだろ」
「分かってるならいい」
「森で同じことをやる」
父親の顔から怒りが少し消えた。
代わりに警戒が浮かぶ。
ロディは商人へ向き直った。
「グレンが襲われた場所、道だったんだろ?」
「ああ。森を抜ける街道だ」
「近くに川は?」
「……あったな。道から少し下ったところに」
「崖は?」
「崖ってほどじゃねえが、川沿いは急な斜面になってたはずだ」
使える。
ロディは頭の中で地形を組み立てた。
「それと、グレンが倒した二頭の死骸は?」
「そのままだ。回収する余裕なんかなかった」
もっと使える。
「親父。縄、余ってたよな?」
「貸さんぞ」
「まだ何に使うか言ってねえだろ」
「お前に縄を渡して良かった記憶がない」
「昔の話だろ」
「去年だ」
そこは黙っておくことにした。
◇
結局、ロディは父親を完全には説得できなかった。
代わりに条件をつけられた。
一人では行かないこと。
まず現場を見るだけにすること。
勝てないと思ったら手を出さず帰ること。
そして何より、勝手なことをしないこと。
最後の条件だけは自信がなかったので返事をしなかった。
「おい」
「分かったって」
「今、間があったぞ」
どこかで聞いたやり取りだった。
昼前には、ロディと父親、それに商人の三人で村を出た。
商人が同行したのは道案内のためだ。本人は最後まで嫌がっていたが、「《煌日》を預かってるおっちゃんが見てなきゃ、俺が何しても強さの証明にならねえだろ」と言うと、渋々ついてきた。
《煌日》は商人が持っている。
ロディの腰にあるのは、村で使われている普通の鉈と短い剣だけだ。
北東へ進み、森へ入った。
街道を半日ほど歩いたところで、先を歩いていた商人の足が止まる。
「ここだ」
鼻につく臭いで、言われる前から分かった。
街道脇に二頭の赤角猪が倒れている。
ロディの知る猪より一回り大きかった。赤褐色の角が頭部から前方へ伸び、硬そうな毛に覆われた胴は丸太のように太い。
一頭は首を深く斬られ、もう一頭は腹から胸にかけて大きく裂かれている。
「……すげえな」
ロディはしゃがみ込み、傷を見た。
《煌日》で斬ったのだろう。
この巨体を相手に二頭。
グレンという男が強かったのは間違いない。
街道にも戦いの跡が残っていた。踏み荒らされた土、折れた枝、幹の一部が削れた木。少し離れた地面には黒ずんだ血痕もある。
ロディはその周囲を歩いた。
「何してる?」
父親が尋ねる。
「見てる」
「何をだ」
「グレンがどう戦ったか」
二頭の死骸。
血の跡。
木についた傷。
足跡。
赤角猪の突進は速い。だが、曲がるのは得意ではない。以前村に現れた個体もそうだった。避けられたあと、大きく回ってから再び向かってきた。
ロディは街道を外れ、川の方へ下りた。
商人の言った通り、地面が急に傾いている場所がある。下には岩の多い浅瀬。その途中には太い木が何本も生えていた。
「なるほどな」
「何がなるほどなんだ」
商人が後ろから覗き込む。
ロディは答えず、斜面を上り直した。
今度は二頭の死骸の周囲を調べる。
やがて、一方の腹が大きく食い荒らされていることに気づいた。
「おっちゃん。三日前はこんなだったか?」
商人の表情が変わる。
「いや」
ロディは地面を見る。
大きな蹄の跡が残っていた。
二頭の死骸の周囲を歩き回り、森の奥へ続いている。
「戻ってきてる」
父親が剣へ手を掛けた。
ロディは足跡のそばへしゃがむ。
「死んだ仲間を食いにか?」
「赤角猪は雑食だ」
商人が答えた。
なら、餌はもうある。
探し回る必要すらない。
ロディは立ち上がり、街道から斜面までの距離を目で測った。
太い木が二本。
縄を張れる。
地面は柔らかい。
掘れる。
赤角猪は突進する。
曲がるのが苦手。
そして餌場へ戻ってくる。
「親父」
「なんだ」
「縄、貸してくれ」
「何をする気だ?」
ロディは斜面を指差した。
「俺じゃあいつに勝てねえ」
父親も商人も黙った。
「だから、まともに戦わねえ」
父親はしばらく斜面と足跡を見比べていた。
「……危ないと思ったら、俺が止めるぞ」
「分かった」
「今度は間を置かなかったな」
「そりゃ命がかかってるからな」
◇
日が傾き始める頃には、準備が終わった。
二頭の死骸のうち一頭を、街道から斜面へ続く場所まで動かした。三人がかりでも骨が折れたが、位置は狙い通りだった。
そこから斜面へ向かう途中、二本の木の間に縄を低く張る。
ただし、それだけで巨体を転ばせられるとは思っていない。
狙うのは一度だけ。
突進の向きを変えられればいい。
そして斜面の途中の土を、持ってきた三本爪の鉄鍬で掘り返しておいた。
「本当にやるのか」
父親が確認する。
ロディは短剣の柄を握った。
怖くないわけではない。
むしろ、赤角猪の死骸を間近で見てから、腹の底にはずっと冷たいものが居座っている。
それでも、逃げる気にはならなかった。
「やる」
「危なくなったら俺が入る」
「それじゃ俺が狩ったことにならねえだろ」
「お前の見栄より命の方が大事だ」
「分かってる」
ロディは笑った。
「死ぬつもりはねえよ。まだ《煌日》も手に入れてねえんだから」
そのとき、森の奥で枝の折れる音がした。
三人の表情が変わる。
続いて、重い足音。
一つ。
また一つ。
茂みの向こうで何かが動いた。
赤褐色の角が、木々の隙間から現れる。
片側の首筋から肩にかけて、深い傷が走っていた。
グレンが倒しきれなかった最後の一頭。
赤角猪は死骸の前に立つロディを見つけると、低く頭を下げた。
「……でけえな」
ロディは短剣を抜いた。
赤角猪が地面を蹴る。
土が跳ねた。
次の瞬間、巨体が一直線に突っ込んで来た。
ロディは動かない。ギリギリまで引きつける。
正面衝突の直前、右へ飛び退いた。
突き進む猪の前脚が、低く張られた麻縄に引っかかる。縄は一瞬で弾け飛んだが、曲がるのが苦手な魔獣の軸を、わずかに右へ傾かせるには十分だった。
向きがずれたまま踏み込んだ足元は、ロディが掘り返しておいた柔らかい土だ。
足をとられた巨体は勢いを殺しきれず、悲鳴のような声を上げて斜面へ突っ込んだ。
ごろた石と傾斜に体勢を崩し、巨木にぶつかりながら浅瀬まで転がり落ちていく。
「ロディ!」
父親の叫びを背に、ロディは斜面を駆け下りた。
浅瀬の岩場に突っ込んだ猪は、激しく身悶えしながら立ち上がろうとしていた。滑落の衝撃を受けても、なお死んでいない。
ロディは短剣を構えて間合いを詰めたが、分厚い皮膚を前に踏みとどまった。この短剣では刃が届かない。
「おっちゃん! 《煌日》だ! 投げろ!」
「バカ言え!」
「早くしろ! 立ち上がられたら終わりだ!」
商人は舌を打ち、背中の布包みごと《煌日》を斜面下へ投げ落とした。
ロディは落ちてきた布包みをひったくり、鞘から刃を引き抜く。
鈍い夕日を返す刀身。
だが、ロディはそれを剣として構えなかった。
未熟な自分が振ったところで、この太い首を断てるとは思えなかったからだ。
ロディは身を乗り出し、猪の首に残るグレンが刻んだ深い傷口へ、《煌日》の切っ先を突き立てた。
そして、使い古した鉈の背を掲げる。
刀身の峰に向かって、槌のように力任せに打ち下ろした。
ガンッ!
鈍い金属音が響く。
《煌日》の刃が、楔のように首の骨の隙間へ食い込んだ。
猪が激しく痙攣する。ロディは両手で鉈を握り直し、もう一度、峰を叩いた。
静かになった。
浅瀬に巨躯が横たわり、水面に黒い血が広がっていく。
ロディは荒い息を吐き、《煌日》から手を離して泥の上にへたり込んだ。手が激しく震えていた。
斜面の上で、父親と商人が立ち尽くしている。
ロディは泥を拭いながら二人を見上げ、引きつった笑みを浮かべた。
「……勝ったぞ、おっちゃん」
商人は血に濡れた刀と、それを楔にして仕留めた少年を代わる代わる見つめた。やがて、深く息を吐き出す。
「……お前、俺が預かってた刀を鉈で叩き込みやがったな」
「勝ただろ?」
「そういう問題じゃねえ!」
商人は額を押さえ、吐き捨てるように言った。
「……グレンとは、まるで違うな」
「そりゃそうだ。俺はグレンじゃねえ」
ロディは立ち上がり、ゆっくりと《煌日》を鞘へ収めた。




