第一話「煌日」④
浅瀬に血の臭いが広がっていた。
川底の丸石を踏みしめながら、ロディは《煌日》を拾い上げた鞘へ収めた。金属が擦れ合う微かな手応えとともに、手のひらに残る激しい震えを意識した。斜面を降ってきた父親と、その背後からついてくる商人の足音が、水音に混じって聞こえる。
父親は何も言わず近づいてくる。
その顔を見て、ロディは嫌な予感がした。
「親父、先に言っとくけど無事だからな」
「見れば分かる」
「じゃあ、その拳を下ろそうぜ」
「お前が言うな」
拳骨が落ちた。
「痛っ!」
赤角猪に殺されかけた直後に親から殴られるとは思わなかった。頭を押さえてしゃがみ込むロディの上から、父親の手が肩や腹を確かめ、服についた血が本人のものではないと分かってようやく深く息を吐いた。
「危なくなったら止めると言っただろう」
「止められる前に終わったじゃねえか」
「そういう話をしてるんじゃない」
「親父もおっちゃんと同じこと言うな」
「俺を巻き込むな」
追いついた商人が即座に拒否した。
ロディは立ち上がると、腰に差していた《煌日》へ目を落とした。手に入れたわけではない。あの場で必要だったから借りただけだ。名残惜しいが、鞘ごと商人へ差し出す。
「ほら」
商人は受け取らなかった。
「……なんだよ」
「お前、よく平気で返せるな」
「返さなかったら泥棒だろ」
「今さら常識人みたいな顔するな。俺の刀を鉈でぶっ叩いた奴が」
「必要だったんだから仕方ねえだろ。それに刃は叩いてねえ」
「峰ならいいって話じゃねえ!」
商人は《煌日》をひったくると、鞘から少しだけ抜いて刃を確かめた。欠けていないと分かったのか、胸を撫で下ろす。
ロディはその様子を眺めながら、川の浅瀬にしゃがみ込み、冷たい水で手についた血を洗った。こびりついた赤角猪の脂と血が解けて流れ、川底の白い砂を汚していく。水から引き揚げた指先の震えは、まだ完全には止まっていなかった。
「……怖かったか?」
父親が隣で尋ねる。
「そりゃな」
ロディは濡れた手を振った。
「あんなもんに角で突かれたら死ぬだろ」
父親は何か言いかけたが、結局、口を閉じた。
代わりに商人が《煌日》を鞘へ戻す音が聞こえた。
「一つだけ言っとくぞ」
ロディが振り返る。
「お前があいつを倒したからって、グレンより強いとは思わねえ」
「ああ」
「グレンは三頭を相手にして、二頭を斬り殺した。お前は手負いの一頭を相手に、俺たちに準備を手伝わせて、罠にかけた。それでも最後はグレンがつけた傷を使った」
「そうだな」
商人が怪訝そうに眉を寄せる。
「反論しねえのか?」
「事実だろ」
ロディ自身、同じ条件で戦えばグレンには遠く及ばないと思っていた。だから同じことをしなかった。
「でも、同じやり方して俺まで死んだら意味ねえだろ」
商人の目が鋭くなる。
「それで、勝てばやり方は何でもいいって?」
「違う」
ロディは赤角猪の死骸を見た。
「俺には俺のやり方があるってだけだ」
手にした物が刀でも、斬る以外に使えるならそうする。グレンがどう戦ったのかは知らない。知ったところで、同じようにはできない。
「だから、グレンより強いかどうかは、おっちゃんが決めろよ。あいつから《煌日》を預かったのは、おっちゃんなんだから」
商人は黙った。しばらく《煌日》を眺め、それからロディを見る。
「……まったく違うんだよな」
「何が?」
「グレンとだ。あいつなら刀を鉈で叩くなんて死んでもやらねえ」
「死んじまったじゃねえか」
「お前な」
「悪い」
さすがに今のはよくなかった。商人は額を押さえたあと、疲れたように笑った。
「でもまあ、あいつが最後に言ったのは『俺と同じくらい強い奴』じゃない。『俺より強い奴』だった」
《煌日》が差し出された。ロディはすぐには手を伸ばさなかった。
「……いいのか?」
「今さら遠慮するな。朝から散々よこせって騒いでただろ」
「いや、そうだけどよ」
「俺にも、お前がグレンより強いかなんて分からん」
商人は刀を押しつけてきた。
「だから、お前がこいつを育てろ。そのうち《煌日》がとんでもねえ刀になったら、俺の判断が正しかったってことにする」
ロディは両手で受け取った。
ずしりと重い。さっきも握ったはずなのに、今度は妙に違って感じた。借り物ではない。黒い鞘を握る指に力が入る。
「……もらっていいんだな?」
「やっぱり返せ」
「嫌だ」
即座に胸元へ抱え込む。商人が吹き出した。
◇
村へ戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
ロディは家の前で《煌日》を抜いた。父親は少し離れたところで腕を組んでいる。赤角猪を倒したところを見てからも、刀を持つこと自体には賛成していないらしい。
夕闇の中、ロディはゆっくりと刀を振った。空気を切る音がする。
まだ重い。グレンが振っていたときのように、自分の腕の続きとまでは思えない。
それでも、振り抜いた刀身に淡い金色が走った。
「おお……」
思わず声が漏れる。もう一度振る。今度は光らない。角度を変えてみる。やはり駄目だ。
「どうやったんだ?」
刀を睨んでいると、背後から父親の声がした。
「夕飯だぞ」
「ちょっと待ってくれ。今こいつと話してる」
「刀は喋らん」
「分かんねえだろ。育つんだぞ?」
「飯は冷めるぞ」
それは困る。ロディは《煌日》を鞘へ収めた。
家へ向かいかけて、もう一度だけ振り返る。
この刀でさえ、まだ育ちきっていない。なら、外にはどんな武器があるのだろう。
《煌日》よりずっと長い戦歴を持つ武器もあるはずだ。昔話にしか残っていないような代物だって、本当にどこかにあるかもしれない。
見てみたい。できることなら、振ってみたい。気に入ったら——欲しい。
「親父」
「なんだ」
「俺、村を出るわ」
父親の足が止まった。
「……今なんて言った?」
「世界中のすげえ武器、見て回りたい」
「待て」
「強い奴とも戦ってみてえし、自分がどこまでやれるのかも試したい」
「待てと言ってる」
ロディは《煌日》を肩へ担いだ。
朝まで、村を出ることなんて考えてもいなかった。《煌日》を見つけて、欲しくなって、どうにか手に入れたら、今度はその先が見たくなった。自分でも呆れるほど単純だった。
「天下はいらねえ」
ロディは笑う。
「その代わり、世界中の武器を狩りに行く」
「まず夕飯を食え!」
最初の一振りを手に入れたその日、ロディの旅の目的が決まった。




