第四話「デュアルワンネス」②
「何が大したことないんだ?」
ロディが一歩近づくと、イスカは《ノクス》から顔を上げた。
「いや……別に」
声は普通だった。目つきもおかしくはない。
ただ、さっきまで柄を握ることさえためらっていた男が、今は黒い剣を軽く振って具合を確かめている。
「呪われてるんだぞ、それ」
「知ってるよ」
「百人死んでる」
「それも聞いた」
イスカは刃を眺め、鞘がないことに気づいて困った顔をした。その表情まで先ほどと変わらない。
ロディは何となく気味が悪くなった。
そのとき、天井から細かな砂が落ちた。
何かが石を引っ掻く。
ロディが《煌日》を抜くのと、壁際の穴から黒灰色の影が飛び込んできたのはほぼ同時だった。
「下がれ!」
影は着地すると、異様に長い前脚を広げた。
狼に似ている。だが、顔にあるはずの目も鼻もない。首から肩にかけて薄い膜が何枚も重なり、呼吸に合わせて小刻みに震えている。
ロディは知らない魔獣だった。
イスカも知らないらしい。
それなのに、下がらなかった。
「おい!」
《ノクス》を握ったまま前へ出る。
魔獣が床を蹴った。
イスカの剣が横薙ぎに走る。黒い刃は届かず、魔獣は長い前脚を壁へ突いて身体を跳ね上げた。そのまま石壁を二歩、三歩と這い、イスカの頭上を越える。
「後ろ!」
振り向いたイスカの肩を爪が裂いた。
血が飛ぶ。
ロディなら一度距離を取る。少なくとも、傷の深さくらいは確かめる。
イスカは肩を見ただけだった。
「……速いな」
口元が笑っている。
「笑ってる場合か!」
再び魔獣が走る。
イスカは先ほどと同じ動作で剣を右へ引いた。
「馬鹿、同じ――」
魔獣が動きを変えた。一度目の攻撃を見切った魔獣が、斬撃が来るより早く左の死角へ回り込む。
イスカの剣はまだ動いていない。
「え?」
ロディの口から声が漏れた。
魔獣が左へ踏み込んだ瞬間、イスカは引きかけた腕の力を抜き、身体を反転させた。逃げ道へ先回りするように、《ノクス》の刃先を死角へ置く。
魔獣の方から刃へ飛び込んだ。黒い切っ先が首元へ深く入る。
暴れた前脚がイスカの脇腹を掠めたが、手を放さない。押し込まれた刃が肉を裂き、魔獣は床を掻いてから動かなくなった。
荒い息だけが部屋に残った。
「……お前、今のわざとか?」
ロディが尋ねる。
イスカは返事をせず、倒れた魔獣を見下ろしていた。
「一回目で、あいつが俺の動きを覚えた気がした。だったら、次も同じことをすると思わせれば……」
そこまで言って、自分の言葉に自分で戸惑ったように眉を寄せる。
「なんで分かった?」
「分からない」
イスカは《ノクス》を見た。
「でも、こうすれば動かせるって……知ってた」
血が指先まで伝っている。
ようやく気づいたらしく、肩へ触れる。それでも顔をしかめただけだった。
「……俺、こんなに戦えたのか?」
足音が響き、入口からドムが現れた。倒れた魔獣、血を流すイスカ、《ノクス》の順を見る。
「何があった」
「こいつが倒した」
ドムの眉がわずかに動いた。
イスカはそれを見て、今度ははっきり笑った。
◇
砦の上階へ戻る途中、イスカは何度も《ノクス》を眺めていた。
ロディはそのたび横目で確認した。
さっきまで剣を見つけても「見つけてから考える」と言っていた男が、もう手放そうともしない。
「その傷、先に縛っとけよ」
「ああ」
返事だけして歩き続ける。
崩れた広間へ入ったところで、ロディは壁際に足を止めた。
朽ちた絵が残っている。
顔料はほとんど剥がれていたが、一人の戦士らしき人物が描かれていた。左右の手に一本ずつ剣を持っている。
隣の壁の浮き彫りにも、二振りの剣が並べて刻まれ、その下に掠れた文字が残っていた。
ロディは埃を袖で拭った。
「デュアル……ワンネス?」
「二本で一つの名か」
ドムが短く呟く。
奥に進むにつれ、壁画の様相が変わっていた。
二本が別々の人物へ渡されて離れた場所に描かれている時代の絵。さらにその先には、何かの後に再び同じ人物の手へ二本が並び合っている後期の絵があった。
その絵の下にだけ、わずかな文字が読める状態で残っている。
――……渇望と、静謐……
ロディは消えかけた文字を指で辿った。
「途中で分かれて……また揃ってる」
「歴史の順か」
ドムの言葉に、ロディは深く頷いた。
別れていた期間の絵では、黒い剣の周囲にばかり倒れる人間の死体が描かれている。
「最初はどっちも、ただの剣だったんだ。だが分かれて、別々の戦歴を積んだ。黒い方は『渇望』なんて呼ばれるようになって……もう片方には『静謐』って言葉が残ってる」
ロディは振り返った。
イスカが少し離れた場所で《ノクス》を振っている。
肩を負傷しているのに、試すのをやめない。
「……あれか」
「何がだ」
「百人が死んだ理由」
ロディは壁画へ視線を戻した。
「呪われて死ぬんじゃない。あいつを持つと、戦いたくなるんじゃねえか。怖がらなくなるっていうか……肩を裂かれても笑ってた。さっきのイスカ、明らかにおかしかった」
武器は戦歴を積む。
《煌日》もそうだった。《鬼哭》もそうだ。
なら、この二振りも。
「離れている間に、それぞれ違う戦歴を積んだんだ。もしこの二本を揃えれば……」
ロディは壁画の二振りを見比べた。
「あの静謐ってやつで、この渇望を抑えられるかもしれねえ」
ドムが腕を組む。
「どうする」
「決まってる」
ロディは剥がれかけた《ルクス》の絵を指で叩いた。
「もう一本を探す」
背後で風を切る音がした。
イスカが《ノクス》を振り終え、刃を見つめている。
「イスカ。それ以上使うな」
ロディが呼びかけると、イスカは意外そうに振り向いた。
「なんで?」
「その剣、やっぱりまずいぞ」
イスカはしばらく黙っていた。
やがて《ノクス》を肩へ担ぐ。
「でも、俺は使えた」
「そういう話じゃ――」
「さっきまで、俺は自分が何をできるのかも分からなかった」
イスカの目が黒い刃へ落ちる。
「でも、できたんだ」
ロディは返す言葉を探した。
イスカはもう笑っていた。
「俺なら、もっとできる」
イスカはロディの返事を待たず、通路の奥へ歩き出した。




