アイリーンという女 2
それからの二人は――
さらに、愛を確かめ合う日々を過ごしていた。
何度も。
何度も。
時には、少し強引な時もあった。
それでも――
アイリーンにとっては、嬉しかった。
初めて、自分の愛が報われていると感じていたから。
(……幸せ)
そう、思っていた。
――暫くして。
放課後。
アイリーンは、一人で校舎を歩いていた。
帰ろうと、階段へ向かう。
その途中――
踊り場で、見知った声が聞こえた。
彼の声。
友人たちと、楽しそうに話している。
(あ……)
声をかけようと、一歩踏み出す。
その瞬間。
「彼女と最近どうなの?」
足が、止まった。
ぴたりと。
動けない。
「……別に」
興味なさげな声。
いつも自分に向けていたものとは、違う響き。
「えー?やることやってんだろお前ら!」
友人たちが、茶化すように笑う。
「ヤらせてくれるから付き合ってるだけ」
――時間が、止まる。
「ここまで来んの、マジ長かったわ」
「連絡毎日きてうぜえし、なんか手作りの物めっちゃ持ってくるし」
「正直、ヤらせてくれなかったら別れてた」
軽い調子で、笑いながら。
当たり前のように、吐き出される言葉。
「告白したのも、チョロそうだったから」
「ああいうのもいいかなって」
周囲の友人たちが、「ひでぇ」と笑う。
笑い声が、やけに遠く聞こえた。
(……なに、それ)
理解が、追いつかない。
胸の奥が、きしむ。
(……じゃあ)
(私の“好き”は……?)
(あれは……何?)
答えは、どこにもない。
ただ一つ。
確かなことがある。
――“通じていた”と思っていたものは、最初から存在していなかった。
その事実だけが、静かに――
アイリーンの中で、何かを壊した。
そこから、どうやって校舎を出たのか――
覚えていない。
気づけば、ただ歩いていた。
行き先もなく。
足の向くままに。
感覚が、どこか遠い。
何も、考えられない。
――ただ、空っぽだった。
ふと、顔を上げる。
踏み切り。
カン、カン、と警報音が鳴り響く。
もうすぐ、電車が来る。
赤い光が、点滅している。
(……もう、なんでもいい)
そのまま。
何の躊躇もなく――
踏み出した。
迫り来る音と、光の中へ。
――静寂。
ふと、目を開ける。
暗い場所。
何も見えない。
どこかも、分からない。
(……死んだのね)
不思議と、納得していた。
恐怖もない。
ただ、そう思った。
その時。
――声が、響く。
『お前の望むものは、なんだ』
「……望む、もの?」
アイリーンは、小さく首を傾げる。
『何でもいい』
淡々とした声が、続ける。
(望み……?)
(死んだのに……?)
考える。
ゆっくりと。
そして――
浮かぶのは、一つだけだった。
(……愛されたかった)
人に、愛を与えるのは簡単だった。
好きだと言って。
尽くして。
そばにいて。
――それだけでいいと思っていた。
だけど。
返ってこなかった。
一度も。
(……誰かと)
(ちゃんと、愛し合いたかった)
対等に。
同じだけ。
同じ温度で。
強く、願う。
その想いが、暗闇の中で形になるように。
すると。
『ならば、望むものを与える』
声が、応じる。
『それを糧に、力とし――生きるがいい』
その瞬間。
暗闇に、ひびが入る。
光が、差し込む。
――何かが、変わる。
アイリーンの中で。
決定的に。
――目を、覚ます。
視界に広がるのは――山。
見渡す限りの自然。
どこまでも続く緑と、空。
夕日が差し込み、世界は橙色に染まっていた。
(……なに、ここ)
アイリーンは、ゆっくりと身を起こす。
見慣れない景色。
知らない匂い。
感じたことのない空気。
(……私、死んだのよね?)
(ここが……黄泉の国ってやつ?)
混乱する思考。
現実感が、ない。
その時――
「ねえ、迷子?」
不意に、後ろから声がかかる。
振り返る。
そこにいたのは、一人の女性。
柔らかな表情で、こちらを見ていた。
「あ、違います……」
反射的に否定する。
だが。
ここがどこなのか、分からない。
言葉が、続かない。
「そっか」
女性は、特に気にした様子もなく。
「じゃあ、おいで」
迷いなく、アイリーンの手を取った。
その手は、温かかった。
――拒む理由が、なかった。
そのまま、山道を登る。
しばらく歩いた先。
「着いたよ」
視界が開ける。
そこにあったのは――教会。
古びてはいるが、しっかりとした造り。
どこか、静かで落ち着いた空気が流れている。
「……教会に、住んでるの?」
アイリーンは、ぽつりと尋ねる。
女性は、くすっと笑った。
「建物は教会だけどね」
「中身は、孤児院だよ」
優しい声。
「さあ、入って」
促されるまま、足を踏み入れる。
中へ。
「この場所、ちょっと前まで誰も使ってなくてさ」
歩きながら、女性は続ける。
「それなら、孤児院にしようかなって思って」
軽い調子で。
「まあ、少しボロいけど――楽しいとこだから」
大広間へと案内される。
そこには、数人の子どもたち。
年端もいかない男女が、思い思いに過ごしていた。
その視線が、一斉にアイリーンへ向く。
――そして。
ぱっと、笑顔になる。
「ようこそ!」
無邪気な声。
歓迎の言葉。
その空気は、あまりにも温かくて。
アイリーンは――
ほんの少しだけ、息を止めた。
(……ここは)
(……いい場所、かも)
そんなふうに、思ってしまった。
――それが。
すべての始まりだった。
「そういえば、あなた名前は?」
女性が、何気なく尋ねる。
「あ、愛理……」
――しまった。
思わず、本名が口をついて出る。
一瞬、焦りが走る。
だが。
「アイリ?」
女性は首を傾げる。
聞き慣れない響きだったのか、深くは追及しない。
「……アイリーンです!」
とっさに、言い直す。
少しだけ強引に。
女性は気にした様子もなく、にこりと笑った。
「そっか、アイリーンね」
その一言で――
“アイリーン”としての生活が、始まった。
孤児院は、小さな場所だった。
子どもたちも、ほんの数人。
職員は、あの女性ひとりだけ。
だからこそ。
皆で、協力して生活していた。
掃除をして。
食事を作って。
畑を手伝って。
時には、些細なことで喧嘩もする。
けれど――
すぐに仲直りする。
そんな、穏やかな日々。
最初は、戸惑いもあった。
見知らぬ場所。
知らない人たち。
慣れない生活。
身体も、心も、少しだけ疲れる。
それでも。
ここには――
「ねえ、アイリーン」
「これ手伝って!」
「ありがとう!」
自分を呼ぶ声があった。
必要とされる感覚があった。
生前には、なかったもの。
毎日を、必死に生きる。
誰かのために動き。
誰かの役に立つ。
それだけで、十分だった。
(……ここでの生活、楽しいな)
ふと、そんなふうに思う。
いつの間にか。
“愛されたい”という焦りは、少しずつ薄れていった。
誰かを愛することに、執着することも。
なくなっていく。
やがて――
この世界には、“魔法”というものが存在することを知る。
孤児院の職員はもちろん、子どもたちも当たり前のように使っていた。
火を灯し。
水を操り。
簡単な作業をこなしていく。
――だが。
アイリーンだけは、違った。
魔法という概念が、うまく理解できない。
どうやって使うのかも分からず、何もできなかった。
(……なんで、私だけ)
ほんの少しだけ、胸の奥がざわつく。
そんなある日。
一番年下の男の子が、転んだ。
膝を擦りむき、泣きじゃくっている。
大した怪我ではない。
それでも、痛いものは痛い。
「大丈夫、大丈夫……」
アイリーンは慌てて駆け寄る。
布と水を用意し、手当をしようとする。
その時――
傷に触れようと、手を伸ばした瞬間。
淡い光が、ふわりと浮かんだ。
そして。
擦りむいたはずの膝が、ゆっくりと――
癒えていく。
「……え?」
思わず、息を呑む。
「アイリーンすごい!」
男の子は、涙を拭いながら笑った。
そのまま立ち上がり、走り出す。
「アイリーンが魔法使えたよ!」
無邪気な声が、孤児院に響く。
(……今の、なに?)
戸惑う。
だが。
それ以上に――
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
どうやら。
自分は、“癒す”ことに特化した魔法を持っているらしい。
攻撃ではなく。
何かを生み出すでもなく。
ただ――誰かを、治す力。
(……人に、尽くせる)
(しかも……迷惑にならない)
その事実が、嬉しかった。
もともと、人のために動くことは好きだった。
けれど。
それが、相手に負担になってしまうこともあった。
――でも、これは違う。
確実に、役に立てる。
誰かを、助けられる。
それから。
アイリーンは、必死に魔法を磨いた。
傷を癒し。
疲れを取り。
倒れた者を助ける。
「ありがとう」
「助かったよ」
その言葉が、積み重なっていく。
誰かに尽くしたい。
誰かのためになりたい。
それは――
決して歪んだものではない。
純粋な、善意だった。
そうして。
穏やかな日々の中で、年月が流れていく。
月日は流れ――
アイリーンは、いつの間にか孤児院の中で最年長になっていた。
かつて一緒に過ごしていた子どもたちは、
自立したり。
里親が見つかったり。
それぞれ、新しい人生へと歩み出していく。
――そして。
気づけば。
この場所に残っているのは、三人だけだった。
少し年老いた女性職員。
アイリーン。
そして、同年代の一人の男性。
ある夜。
三人で、食卓を囲む。
見慣れた光景。
だが――どこか、少しだけ違っていた。
静かで。
穏やかで。
そして、どこか終わりを感じさせる空気。
「……気づけば、私たちだけになったね」
職員が、ぽつりと呟く。
「みんな、自立して……立派になったよ」
その声には、誇らしさと寂しさが混ざっていた。
少しの間を置いて、続ける。
「まだあんた達が残ってるけど」
優しく、二人を見つめる。
「二人なら、それぞれちゃんとやっていけると思う」
そして――
小さく、笑った。
「孤児院は……これで終わりにしようかな」
「私も、歳だしね」
軽く言ったつもりなのかもしれない。
けれど。
その言葉の重さは、十分に伝わっていた。
「あんた達に出会えて」
少し声が震える。
「私は、本当に幸せだったよ」
そのまま、涙がこぼれる。
止めることもなく。
ただ、静かに。
アイリーンも。
隣にいる彼も。
言葉は出ない。
ただ――
同じように、涙を流していた。
三人で囲む、最後の食卓。
いつもと変わらない料理。
いつもと同じ時間。
それなのに。
その一瞬一瞬が、やけに重くて。
愛おしかった。




