武士とは……
平が八つの時、忠盛は宗子、という女性を正室として迎え入れた。彼女は連れ子として平次という名前の男の子を連れていた。平次は平よりも一つ下で、異母姉である平とよく遊んでいた。それを忠盛は微笑ましい、と思っていたし宗子もまた平を人並みに愛していてくれた。すべては順調に進んでいる、はずだった。
しかし、ある日のことだ。
平が平次と一緒に屋敷の庭に生えている木に登ろうとした時、平次の掴んだ枝がポキリと折れ、平次はケツから硬い地面に落ちてしまった。平はすぐに駆けつけたし、宗子などは血相を変えてまるで仁風のようにその場に現れた。
宗子は寄り添おうとする平を突き飛ばし、弱々しく身体を動かせる平次をワレモノを扱うかのような優しい手つきで抱き上げた。そして目を麗して平次を心配そうに見る平を睨みつけ、いきなり頬を叩いた。あまりのことに平は一瞬自分が何をされたのかわからなかった。それは彼女が生まれて初めて味わう、信じていた人間から与えられた痛みだった。
「平次に、平次に何かあったらどうするというのですか!」
それが彼女の目にどう写ったのだろうか?自分の弟をかばう義母の姿。それは平の目から見れば、ただの虚像に過ぎなかった。これまでの宗子のイメージ像が崩れ去り、どこか孔の開いた黒い煙が宗子の顔を覆っていた。
顔を見るのが耐えられなくなり、平はその場から逃げ出した。屋敷を飛び出し、ただただ走った。誰も付き添わずに彼女が屋敷を出るのはこれが初めてだった。しばらく無我夢中で走るともう帰り道がわからなくなり、平は露頭に迷ってしまった。周りを見れば馬に乗った貴族、きらびやかな太刀を下げた武士、汚い服を着た町民。娼婦などもいた。
平の金髪は道行く人の目を引き、彼女はその視線がどこか気味の悪いものに感じられた。その視線が耐えられなくなって下を向き、頭を突き出して人混みから脱出しようとした時、彼女は何かにぶつかってしまい、派手にすっころんだ。
すぐに起き上がり目の前に視線を向けると、そこには彼女と同じ年ぐらいの汚れた髪、汚れた服、やごれた身体の少女が同じように尻もちをついていた。平と彼女の間にはだいこんや芋などが転がっており、それを入れたザルは少女の頭にまるで傘のように乗っかっていた。
「やい、ほっとは前見て走れ!」
平が彼女に話しかけるよりも先に少女はきつめの口調で平に文句を言った。突然のことで平は反射的に「すまぬ」とだけしか言えなかった。少女はなおも何か言おうとしたが、遠くから「だいこん返せ」、「芋返せ」とどやしてくる男を認めると、慌ててだいこんや芋を回収し、その場から立ち去ろうとした。
そんな少女の腕を平は掴むと、
「盗んだのか?」
少女に聞いた。少女は怪訝そうに眉をひそめるが、すぐに感情をむき出しにして吠えた。
「それがどうした?うちらはそうやって生きてくしかないんだよ!」
そう捨て台詞を残し、少女はザルを持って人混みの中へと飛び込んだ。その少女に何かを感じたのか、平は少女を追った。
幾人もの人がごったがえす人混みをかき分け、ようやく平が少女に追いついた時、そこは都の外れも外れ。都の外との境目もないひどい腐臭のする町並みが広がっていた。
木造りとも言えない、ただ木材を地面に突き立てただけのてきとうな掘っ立て小屋を始め、髪の毛でかつらを作ろうと死体の毛をちぎっている老婆、ひもじさのあまり自分の指の皮をなめる少年など、見るだけで眉をひそめるものが数多くそこにはあった。
その中から走る少女を瞬時に平は見つけ、少女を呼び止めた。呼び止められた少女は平を一瞥すると、なんだお前か、と吐き捨てた。
「なんで盗みをするの?」
「そんなもん、生きていくために決まってんだろ。うちらみたいな金もない、刀もない野良犬はこうやって生きてくしかないんだよ」
少女の言葉に平は口を曲げて顔をしかめた。そんなのは間違っている、と彼女は心の中で思った。ただそれは彼女が心から思ったわけではなかった。
「父上は盗みはいけないって言ってた。盗みをするやつは最低だって!」
「ふん、どこの嬢ちゃんかしらないけど、きっといい生活してんだろうね。汚くなってるけど、ちゃんと着物を着てんだから」
少女は面白くなさそうに平の服を舐めるようにして見た。彼女の着ている服は泥にまみれ、ところどころが傷んでいる。対して平のは多少汚れてはいるが、傷んでいる箇所はなかった。
「でもね、それはあんたの父ちゃんがあたしらから搾り取った米とかでこしらえたものなんだよ。あんたの父ちゃんはそれが当然、とか思ってるんだからうちらよりもよっぽどひどい泥棒さ!」
その言葉に平の中で何かが弾けた。そして気がついたときには平は少女の胸ぐらを掴んで地面に押し倒していた。顎に力を入れ、少女のことを親の敵、とでも思いながら睨んでいた。
「取り消せ!父上が、平家の棟梁が泥棒なわけがないだろ!私の父上は勇猛で、誰よりも武士らしい……」
「なに?忠盛があんたの父親?は!こりゃ、傑作だ。じゃぁ、やっぱりあんたの父親は泥棒さ!」
少女は押し倒していた平の顔を殴り、平が態勢を崩したところを彼女を張り飛ばして睨んだ。
「あんたの父親はあたしの親父を殺した!それだけじゃない、この國に災いをもたらす赤ん坊なんてものを子供としてでも院に取り入る欲望の塊さ。院に金出して、あたしらから絞れるだけ絞るクソ野郎だ!そんなものの娘のあんたもまた泥棒だ!」
「なんのことそれ?父上が?おい、私の父上をこれ以上愚弄するな!」
「へ、。何言ってんだか。あんたの親父なんてもうカスよ、カス。あんなのが武士を名乗るんだから、この世は地獄よ。生きてる価値すらない、クソよ」
少女は心底忠盛を嫌っているのか、次々の罵詈雑言を吐き出す。それが平には我慢ならなかった。すぐにでも首をしめたい、と思ったがなぜだか身体が動かなかった。
それは彼女が放った言葉が胸に刺さっているからだ。
赤ん坊を引き取った、という一言。それが彼女の気持ちを悩ませていた。
「これ以上ここいんなよ。あんたと話すなんてこれ以上はごめんだ!」
少女は動かぬ平に容赦のない蹴りを食らわせ、平がうずくまっているうちにその場からすたこらさっさと逃げ出した。
平は泥だらけになり、その場に転がった。そしてしばらくして、雨が降り出した。
*
泥だらけの中、平は平氏の館を目指して歩いていた。夜が過ぎ、朝方の頃だ。服はもう洗っても落ちないくらいに土の色が染み込み、彼女自身も土塊だらけになっていた。そして彼女がもうすぐで平氏の屋敷に到着する、といったところで人影が彼女の行き先を遮った。
「……父上……」
消え入るような声で平は呟いた。彼女の父、平忠盛はまるで哀れなものを見る目で泥だらけの平を見つめていた。腰には貿易船からかっぱらってきた宝剣を差しているその姿は堂々としたものだった。
「汚いな。一体いつまで遊んでいた」
忠盛の声はこれまでにない厳しいものだった。それは彼にとっては愛情の裏返しだったが、今の平にはそうは感じられなかった。
「父上、私は本当は誰の子供のなんですか?」
唐突な平の問いに忠盛は眉を潜めた。だが、それだけだ。その直後彼が浮かべたのは、安堵と脱力が同時に襲い掛かってきたような表情だった。
「お前の母親は死んだ。物心ついたときにそう教えたはずだ」
「嘘を、嘘をついたのでしょう?私は……國を滅ぼす厄子だと……。それに、父上は出世のために私を利用して……」
「だからなんだ?」
「父上は卑怯だ!それが武士の、武士の棟梁のすることなのですか!」
「平、まだお前は何も知らないな。武士とは何か、自分自身のことさえも」
感情をむき出しにして火を噴く平を忠盛は冷たく突き放した。その忠盛の顔は平が初めて見る冷酷な父の顔だった。その顔に恐怖し、平はつい後ずさってしまった。
「今のお前はただやり場のない怒りや悲しみを外に出しているだけ、世の中のことを何一つ知らない、犬にすらなりきれぬ愚物よ。お前はこの私が庇護しなければ、すぐに野垂れ死ぬだろうな。家も、服も、食べ物も、愛情も、それらすべてをお前は与えられているに過ぎん。そんな犬以下の愚物が何を吠えたところでそれはただの遠吠えにすぎない。
力のないただの子供であるお前が私に文句があると言うのなら今すぐ平氏の家から出て行け。平性も名乗るな。平とも名乗るな。名も無き子供として死ね。
だが、もし、お前が武士として、勝つこと、力を欲することを望むのなら……」
そこまで言って忠盛は腰の宝剣を抜き放つと力の限り地面に突き立てた。宝剣は地面へと突き刺さり、そして直立した。
「……強くなれ。そして強くならなければ、お前には生きる資格はない!」
忠盛はそれだけを言って平の前から姿を消した。
彼女の目の前には忠盛が力の限り突き刺した宝剣だけが残った。
父親からのこれまでにない罵倒。自分には生きている価値がない、という父親からの言葉。父親への疑念。自分の無知。自分の無力さ。自分がこれまで騙されていた、という事実、そういった様々な挫折や悔しさといったものがいっぺんに表の身体の中で暴れだした。
それらを払拭、いや抑えるために彼女は目の前の宝剣の柄を握る。そして彼女に出せる力の限り、抜こうともがいた。しかし、そう安々と動くわけがない。いくら平が力を入れようと宝剣はまるで動かなかった。
それでも、平は宝剣を引き続けた。そしてついに、宝剣が少し持ち上がり、徐々に姿を現していった。
その宝剣を地面から抜き放ち、平はたかだかと掲げる。それが彼女にとって、強くなる、という決意の証明だった。
*




