今生の別れ
「生まれ……た?」
忠盛が厩に入って発した第一声はそれだった。彼の目の前には真っ赤に染まった白い布に抱かれた赤子の姿、そしてそれを大事そうに抱えた金色の長髪の女がいた。女は赤子のことを涙ながらに眺め、必死に赤子を泣き止まさせようとした。
幸い、今この屋敷には忠盛の他にはほとんど人がいなかったので、いくら産声をあげても問題はないのだが、当然雲蓮にはそんなことはわからない。だから、彼女にとって突然入ってきた忠盛は唾棄すべき害悪となったのだ。彼女は隠し持っていた短刀を抜き、生まれたばかりの赤子に突き立てようとした。しかし、すぐに忠盛であると気づき、その一刀はすんでのところで止まった。
「それは……ぬしの子……か?」
「それがどうした?」
初めて忠盛が聞いた雲蓮の声はどこか霞んでいた。そして汚濁を含んでいた。彼女はまだ短刀を赤子へと向け、鬼の形相で忠盛を睨んでいた。
「いや……都である噂を聞いた。金色の長髪の女を捕らえ、殺せ、と。よもや……よもやおぬしがその女なのではあるまいな?……なぁ?」
「それを知ったんならあんたにも想像はついているだろ。どうせ、褒美目当てであたしを院に売るんだろ?だったらここで……!」
言うが早いか雲蓮は短刀を振り上げ、赤子に突き立てようとした。
「待て!待て待て!まだ、俺はお前を院に差し出す、とは言うておらん!まだ院の武士も呼んではおらん!」
「どう信じろってんだ。あたしはもう誰も信用できないんだよ。ここで捕まってなぶり殺しにされるくらいならここでこの糞ガキと一緒に死んでやるさ」
「子供にはまだ罪はないだろ。まだ世を知らぬ子を殺してあの世へ逃げたところでお前が救われるわけではない!とりあえずその短刀を置け!」
「生まれたことが罪なんだ!このガキは。こいつさえ生まれなければ、あたしは!」
それでも短刀を振り上げようとする雲蓮に忠盛はついに彼女の片腕を捻り上げ、短刀を取り上げた。それでも首を絞めて赤子を殺そうとした雲蓮を今度は忠盛は本気で打った。
「子を殺すとする親がいるか!なぜ、殺す?生まれたならば、産んだならば最後まで責任を取れ。それが母親というものであろうが!」
その言葉に水でもかけられたように雲蓮はピシャリと動かなくなった。
「今日の夜。石を連れて南へと逃げろ。石は名馬だ。一度走れば大抵の追手は振りほどける。だからそれまではおとなしくしていてくれ」
忠盛は今戻したばかりの自分の馬をなでながらそう言った。
このことは自分だけの秘密にしなければならない。父である正盛や、弟の忠正になど知られれば立ちどころに彼女は捕まってしまう。
幸い、自分しか知らないことだ。黙っていればいくらでも切り抜けられる。
しかし、現実はそううまくは進まなかった。
忠盛の父、正盛が帰宅して早々正盛が厩へと向かってしまったのだ。自分の馬を戻すためだが、忠盛が替わろうとしても正盛はそれくらいは自分でできる、と忠盛を押しのけて厩に入ってしまったのだ。彼の鼻は僅かな血の匂いが漂っているのを厩に入った瞬間に嗅ぎつけ、すぐに厩の中に視線を向けた。
そして物陰に隠れていた雲蓮を自分の家人に引き釣りださせると、忠盛にどういこうとだ、と責めるような目を向けた。ただ森はその気迫に押されてただ黙るしかなかった。
「お前が話さぬ、と言うならばそれでもよい。しかし、この女を庇い立てすればお前を平家から追放することもわしは厭わぬ。聞いているぞ、この女の赤子はいずれ國を滅ぼす、と」
「し……しかし、父上。生まれた赤子に罪は……」
「罪のないからとて殺してはいけない、などという掟はこの世にはない。お前は罪がない、と言って山狩りに行ったときに猪や青鹿を射殺すことをためらうか?ためらわぬであろう?つまりはそういうことだ。人は自分が良しとしたものにだけ都合の良い言い訳を作るのだ」
平正盛。白い顎髭の老将は愚行を犯そうとする息子に対して、罪の本質を突きつけた。正盛も院に仕える武士である以上、罪のない人間を殺したこともある。義賊として民に慕われた英雄、院の気に入らない貴族家、果てはただの農民まで数多殺してきた。青臭い考えを持っていた忠盛とはその生きてきた修羅場の数が違うのだ。
「あの、女と赤子はどうなりますか?」
「すぐに院に引き渡す。すでに源氏の棟梁である源為義殿がこしらに向かっているはずだ」
「私も、それに同道してもよろしいでしょうか?」
「何を言っておられる、兄上!」
忠盛の発言に反応したのは正盛ではなく、彼の弟である忠正だった。普段から父親である正盛を慕い、正盛を支持してきた男ではあったが、ここでも彼は忠盛に疑問を呈した。
「兄上、あの女は忌み女。それに同道して兄上はどうなさる。まさか、あの女の助命を乞おうなどと考えてられるわけではありますまいな?それはありえぬこと。武士の命など院に、法皇様にとってはちっぽけな路上の石に等しいのですぞ!」
忠正は忠盛が直訴することを危惧しているのだ。もし、忠盛が直訴などしようものなら、無礼千万とばかりに院は忠盛を殺すだろう。それは父親と同じくらいに忠盛を敬愛する忠正にとっては我慢ならないことだった。
「よい。好きにしろ。だが、間違ってもこの家を潰してくれるなよ?」
忠正を遮り、正盛は忠盛の願いを聞き入れた。そしてその直後、若干得意の笑顔を引きつらせて為義が自分の家人を引き連れて忠盛と赤子を抱く雲蓮の前に現れた。




