長い旅(三)
困ったことに、熱を出した。朝起きたら寒くてでも触った身体は熱くて、布団を巻いても寒さが治まらない。熱が何度あるのかわからないし、病院に行くわけにもいかないし、看病してくれる相手もいない。とりあえずフロントに電話して延長の手続きをした。もう一晩でどうにかなればいいのだけれど。
こういうときにものすごく思い知るのだけれど、この生活は、はっきり言って不便だ。社会っていうのは弱っているときに助けてくれるものなんだよなあ、と考える。シュウは社会にそもそも属さないけれど、私はあえて背を向けてしまったのだ。本当は弱いのに。一人でやっていくことなんてできないのに。急に心細くなる。早く、夜になればいいのに。早く日が沈むか、それか雨が降ればいいのに。そうしたらシュウが帰ってくる。
毛布を身体に巻きつけて起き上ると、顔を洗って歯磨きをした。起こさないでください、の札をかけておく。ベッドに戻って荷物を漁ると食べるものはチョコレートしか出てこなかった。薬を飲むのに空腹ではまずいので、チョコレートをひとかけら食べた。味が感じられなくて、妙に硬い気がする。そのあと、薬を飲んだ。
なんで風邪なんか引いたんだろう、と考えて、シュウと寝たからか、と思い出した。昨日のシュウは出かけなくて、ベッドに寝転がって二人でテレビを見た。ベルギーかフランスの、ちいさい男の子が主役の映画がやっていた。画面が綺麗で子供が可愛いので私は気に入って、何度も泣いてしまったけれど、シュウは全然面白くないようだった。
「色は綺麗なんだけどなあ。こういうのはよくわからない」
シュウは戦ったり人がどんどん死んだりする映画のほうが好きだ。
「ひどい顔だなあ」
CMが入るたびに、シュウは私の顔をティッシュで拭ってくれた。映画が終わった頃には、私の身体はつめたくなっていた。シュウは体温が低い、というか、体温というものが、多分ない。寧ろ、周囲の温度よりも低い気がする。冷気というか寒気、というか、そういうものを纏っている。それも理屈に合わないことに思えるけれど。
お風呂に入って出てくると、シュウは深夜番組を見ていた。お笑い番組だ。シュウはそういうのが好きだ。けらけら笑っている。
「おかえり」
布団の端を捲って言うので、私は大雑把に髪の水気を取って、そのままベッドに入った。ひんやりとした布団。シュウがくっついてくる。ちいさい、肌はとても柔らかいのに骨組みの硬い、男の子の身体。私の身体に腕を回して、鎖骨の辺りに頬ずりをする。私はシュウの髪を撫でる。シュウの髪は細いけれど硬い。
「私って、おいしそう?」
カフェで話したことを思い出して尋ねてみる。
「君? うん。おいしそうかな」
シュウは私の鎖骨を舐めた。つめたい舌。きゅうっ、と毛穴が縮まるような感触。
「君みたいなのが一番おいしいよ。若い乙女」
声の調子が、いつもよりも低い気がした。
「食べたく、ならない?」
「ならない」
シュウはふっと鎖骨に口付ける。
「僕はあんまり食欲ってないんだ。必要だから食事はするけど。だいたい、君、太った牛見て食欲が刺激される?」
「されないね」
「うん。だから安心していいよ」
「ふうん」
「獲物なんかそのへんにいくらでもいるんだし」
ふうん。
胸につめたい頬ずりをするシュウの髪を撫でながら、じゃあこの子は一体どういうときに食欲を刺激されるのだろう、と考えた。初めて会ったときは、確かに私の血を吸おうとしていた、と思うのに。
くっついたまま、テレビを見たり、話したりして、そのうち私は眠った。それで、起きたらこのざまだ。シュウはいないし。
「シュウのせいなのに」
呟いてみる。声も少し出にくくなっている。テレビをつけてみるけれど、音が頭に響くので、すぐに消す。鞄から本を出して、枕元に置いて、いつでも読めるようにしておく。でも、まだ読む気がしない。ブラッドベリは読み終わってしまったので、今あるのはカーの「妖魔の森の家」だ。翻訳じゃなくてもう少し読みやすいものにすればよかった、と悔やむ。それか、一回読んだブラッドベリなら今の頭でも読みやすかったかもしれないのに。捨てなければよかった。
ふと思いついて、備え付けてある聖書を開いてみる。適当に読むが、意味がよくわからなかった。閉じて、元の場所に戻す。小さく咳をしながら、ああこれからも私は聖書を読むことなんてないんだろうなと思った。思って、身体が弱っているからか、少し寂しかった。
ただ横になって、少しでも空気が入ると寒いので、布団にくるまる。
早く夜になればいいのに。
眠ることも出来ずに、ただそう思う。早くシュウが帰ってこればいいのに。
でもまだ朝の十時だ。布団の中で小さくなって、早く、とただ思う。念じれば念じるほど時間は早く進むんじゃなくて、どんどん分断されて細かくなって進まなくなる。わかっているのに、ただ時間が早く過ぎるように願うことしかできない。早く、シュウに会いたい。
目を閉じて、小さく丸まった私は、不意に気付く。
シュウが帰ってくる保障なんて、一つもない。




