長い旅(四)
目を開けたら、シュウがいた。赤い目を見開いて、私の顔をじっと見ている。
「いま、なんじ」
急に出した声は掠れて、最後の方はほとんど音にもなっていない。それでもシュウはわかってくれたみたいで、時計を見て「九時」と答えた。いつの間にかそんな時間になっていたのか。眠ったり起きたりを繰り返して、時間の感覚がほとんどない。
「これ、風邪?」
頬に触れる指がつめたくて、気持ちがいい。私は小さく頷いた。喉が痛いし、頭がぼうっとしている。ほとんど水分を取っていないので、ひどく喉が渇いていた。
「みず」
唇だけを動かして訴えると、シュウは頷いて、ペットボトルの水を差し出してくれた。でも、顔のすぐ横にあるそれを取るために、どう身体を動かしていいのかわからない。だるい。できない。
「甘えてるの?」
皮肉っぽい声。違う、と言おうとするけれど、声も上手く出ない。でも、やろうと思えばできないことはないのかもしれない。シュウがここにいなければ自分でどうにか取ろうとするだろうから、確かに甘えているのかもしれなかった。でもよくわからない。今の私にはできない。
シュウがペットボトルを開けてくれる。と、思ったら、何故かその水を自分で飲んだ。
ものを飲むところを見るのは初めてだな、と考えているとシュウの顔がゆっくりと近づいて、唇が私の唇と重なった。なんだろう、と思い、ああ、と気付いて口を少し緩めると、水が喉に流れ込む。つめたい。荒れた喉に少し沁みる。シュウの顔が離れる。
「まだ飲む?」
もっと飲みたい。私はちいさく頷いた。
500ミリリットルのペットボトルから半分ぐらいの水を飲ませてもらうと、少し元気が出た。おなかがとてもすいている。
「おなかすいた」
掠れてはいるけれど、さっきよりはしっかりした声が出た。ベッドの脇に膝立ちになっているシュウが、私の額を撫でてくれる。
「何が食べたい?」
「ゼリー。飲むやつ」
「おかゆとかじゃないんだ」
そういわれると、何が食べたいのか混乱してきた。
「よくわかんない」
「甘えているね」
おかしそうに笑うと、私の瞼に口付ける。
「待ってて。買ってくるよ」
その声に安心して、うん、と答えて目を閉じる。そのままとろとろまどろんでいると、シュウが私の頬に触れた。
「ただいま」
「おかえり」
「甘えん坊のお姫様のために色々買ってきたよ。何がいい?」
そう言って、シュウはベッド脇のテーブルにコンビニの袋を置いて、中のものをいろいろと見せてくれた。パックの飲むゼリーとか、カップのおかゆやシチュー、カップゼリーやチョコレートやのど飴や風邪薬。少し多すぎる。
「買い物って楽しいね」
私の心を覗いたようにシュウが言って笑う。
「ありがとう」
私は最初の言葉通りパックのゼリーをもらった。あまくて冷えていて、空っぽの胃にすっと入ってきてとても美味しい。
「美味しい?」
尋ねるシュウに、ゼリーをくわえたまま頷く。
「お行儀が悪いな」
頬にかぶさる髪を、耳にかけてくれた。私はその手を掴んで、頬に押し付ける。気持ちいい。
「なあに?」
ゼリーを口から離す。
「また会えて、嬉しい」
馬鹿げた私の言葉にシュウは驚いたように目を見開くと、微笑んだ。
「僕もだ」
それだけのことで、心が弱っているせいか、泣き出しそうになってしまう。
ゼリーを一パック空けると、薬をもう一度飲んだ。シュウが私の頭を撫でてくれる。
「テレビ、つけていい?」
「うるさいから、だめ」
「一緒に寝ていい?」
「寒くなるから、だめ」
「ちぇ。つまんないな」
「つまらない?」
シュウは唇を尖らせる。
「つまらないよ。人間は弱いなあ」
我慢させている、と思うと、涙が滲んだ。
「ごめんね」
その途端、シュウはあからさまにうろたえる。
「嘘だよ。ごめん。大好きだよ」
そして、あっと言う間に私の上に覆いかぶさって、布団ごと私を抱きしめた。
「大好きだ」
シュウはもう一度言うと、私の顔にいくつもいくつもキスを落とす。シュウの体重が掛かって、とても重たいし、顔に掛かる髪の毛が鬱陶しい。
「私も」
でも私はそう言うと、シュウの背中をそっと撫でた。おしまいにシュウは唇にキスをすると、ベッドから降りた。
「はやく元気になってよ。僕、なんでもしてあげるから」
「うん」
「元気になってよ」
「うん」
シュウの髪を撫でる。その手をシュウは捕まえて、握る。シュウの手がつめたくて、寒い。
人間は、弱い。本当に弱い。少しのことで動けなくなる。理由もわからない不調だって多いし、治るのにも時間がかかるし、そもそも治る保障もない。
「ねえ」
呼びかけると、シュウは顔を寄せた。冷たい呼気からは、やっぱり血の匂いがする。しみついているのだ。
「なに?」
「いつ私を、シュウと同じにしてくれるの?」
シュウの目が細くなる。普段なら怖くなるその表情も、熱でぼうっとなった私は不思議な平静さで眺めた。
「その時が来たら」
「そのときって、いつ?」
シュウは眉を寄せる。そして、小さな声で呟いた。
「君が人であることを捨てたとき」
「それって、いつ来るの?」
「わからない。でも、来たらきっと僕にはわかるよ」
「そう」
私は目を閉じた。シュウの言っている事が、よくわからなかった。私は人であることに、まだ固執しているのだろうか? そんな気はしないけれど、そうじゃないとはいいきれない。私には判断がつかない。人であることを捨てるとは、一体どういうことなんだろう。
「シュウは」
「ん?」
「人であることを、捨てたの?」
「うん。もう、よく覚えてないけどね」
「それって、どういうことなの?」
「……わからない。でも、捨ててなけりゃ、こっちには来られない。君は、まだだ」
まだ。まだ、行けない。
「わたし……」
早く、そっちに行きたい。そう言いかけて、やめた。
「なに?」
「なんでもない。頭、撫でて」
「うん」
シュウは頭を撫でてくれる。壊れ物を扱うように、そっと。
言いかけてやめたのは、シュウが私に、まだこちらにいてほしいような気がしたから、だった。




