長い旅(五)
小さなケーキ屋は、平日の昼間という時間のせいか、私以外に客はいない。
小さなショーケースの中には、色とりどりのケーキが並んでいる。いちじくのショートケーキ、苺のショートケーキ、チョコレートと木苺のケーキ、キャラメルと洋梨のケーキ、チェリーのタルト、ナッツのタルト、木苺のチーズケーキ……。どれも美味しそうで、綺麗だ。何よりケーキ屋のショーケースの前にいて、どれを選んでもいいという状況に、胸がわくわくしてしまう。私は子供なのだ。
「今ならいちじくのケーキがよく出てますね。あと、ナッツのタルトは昨日からの新商品なんですよ」
随分長く悩む私にあきれたのか、店員が話しかけてくれる。ショートケーキは生クリームの角がきっちりとしていて、タルトの焼き色は濃くて、二つともとても美味しそうだ。
「じゃあ、その二つと、ホットコーヒーで」
ようやく顔を上げた私に、店員は笑った。
ケーキ屋は奥が、小さなカフェになっている。二人がけのテーブルが三つと、カウンターに二席。白い壁と木の家具が、絵本に出てくる家のようでかわいらしい。
風邪は、一日でだいたい熱が治まったので、ホテルを変えた。そこで二日もゆっくりすると、ほぼ完治したので、電車で少し遠い街に移動した。チェーンではなくちゃんとしたケーキ屋に来たのは、完治祝いのようなものだ。立ち読みをした雑誌に、焼き菓子が美味しい店だと載っていた。
テーブル席に座ると、鞄から本を取り出す。古本屋で見つけたサガンの「熱い恋」だ。まだ序盤だけれど、今のところとても面白い。
「おまたせしました」
さっきの店員が、コーヒーとケーキを持ってきた。私は白い皿に行儀よく乗った二つのケーキを眺めながら、コーヒーを一口飲んだ。香ばしくて美味しい。フォークを手にとって、ショートケーキの尖った端っこを崩す。口元がゆるんだ。
幸せだな、と思う。少しの間幸せになるのは、簡単なことだ。
「本、好きなんですね」
新潮文庫の棚の前で、そういえばギャリコの「ジェニイ」はまだ読んだことがないと思っていた。
「あの、こんにちは」
どうやら私に話しかけているらしい。慌てて振り返ると、そこにいたのは知らない男の人だった。背が高く、ジーンズと黒いジャケットがラフな感じでよく似合っている。短い髪と日に焼けた肌が清潔で、歳はだいたい二十五歳ぐらい。よく見ても、知らない人だ。
あからさまに不審な顔をする私に、彼は笑った。目尻に感じのよい皺が寄り、唇からはきれいに並んだ白い歯が見えた。悪い人ではなさそうだ、と人に思わせる笑顔。かつ、と記憶のどこかにその笑顔がぶつかる。会ったことがある、気がする。それも最近。
「すみません。急でしたよね。僕は」
「ケーキ屋さん?」
ぱ、と彼の顔が輝いた。
「そうです!」
大きな声に、店員がこちらを振り返る。すみません、と彼が頭を下げる。
「いや、たまたま本屋に行ったら昨日のお客さんがいたんで、ちょっとテンションが上ってしまいまして」
その言い訳に、私はつい笑ってしまう。
「上りすぎじゃないですか」
「そうですね。でも、お店で二つもケーキ食べてくれるお客さん、珍しいですから」
馬鹿にしてるのかと思ったけれど、単純に嬉しそうな顔で笑うので、怒る気になれない。
「クッキーも買いましたしね」
「はい。美味しかったですか?」
「まだ食べてません」
「はは。そうですよね。学生さんですか?」
私は首を振った。
「旅人です」
もう会わない人だろうと思ったから、言ったのだ。彼はきょとんと目を見開いて、それから笑った。
「ホリー・ゴライトリーみたいですね」
その瞬間、私は彼に初めてちゃんとした好感を持ったのだ。話の通じる人だな、と思った。だから、
「コーヒーでも飲みませんか」
と誘われたときに、頷いたのだろう。
彼が連れて行ってくれたのは、大きな道に面したかなり広いカフェだった。天井が広く、夜にはレストランになるようだ。今日も六時からパーティーの予約が入っていると、入り口の黒板に書いてある。席につくと、二人ともコーヒーを頼んだ。
「今日はケーキはいいんですか」
「大丈夫です」
空気を読んで遠慮したのにそんなことを言われたものでちょっとむっとした顔で答えると、彼はくしゃ、と顔を崩して笑った。
コーヒーを待つ間、彼は名前を教えてくれた。杉山広道さん。広い道。なるほどそれらしい名前だ。私も上の名前だけ教えた。運ばれてきたコーヒーに小さなメレンゲがついていたので、私は嬉しくなってしまった。
「今日は店、休みなんですよ。あそこは僕と、友達の二人でやってるんです」
「それって女の人ですか?」
杉山さんは驚いた顔をした。
「気になりますか?」
「可愛いお店なんで、そうなのかな、と思っただけですけど」
コーヒーを飲む。このお店のコーヒーも、なかなかおいしい。もっとも、私はコーヒーの味の良し悪しがよくわからないのだけれど。
「男ですよ。内装は女の人の話をいっぱい聞きました。女の人がたくさん来たらいいなと思って」
「来ましたか?」
「来ました。女の人ばっかりで、毎日楽しいです」
本当に楽しそうなので、私も楽しくなった。
「いいですね」
「はい。小川さんは旅は楽しいですか?」
私は首をかしげた。
「それなりに」
「女の人の旅人に会ったことがないんですけど、自分探しか何かをしてるんですか?」
私は首を振った。
「別にしたくて旅をしているわけでもないんです。ちょっと、外聞をはばかるような理由があって」
杉山さんは冗談だと思ったらしい。笑っている。
「大変ですね」
「そんなに過酷な旅でもないですから、平気です」
「ここにはどのぐらいいる予定なんですか?」
「明日か明後日ぐらいですかね。まだ決めてないですけど」
どのみち決めるのは私じゃない。
「じゃあ、明日、店に来ませんか? 奢りますから」
何を言われているのかよくわからなくて、杉山さんの顔を凝視してしまう。杉山さんは慌てて弁解する。
「いや、その、小川さん、おいしそうに召し上がってくださるので」
見ていたのか、と苦笑する。
「おいしそうに食べる相手に売りつけるのが商売じゃないんですか」
「まあ、そうですけど。でも、本当に、あんなに楽しそうにケーキを選んで食べる人、珍しいですからね。嬉しくなってしまいまして」
「はあ」
杉山さんは何故か照れたように笑う。
「また、来てほしいんです。こういう風にケーキを食べてほしいなって、僕ずっと思っていたんです」
断るべきなのかもしれないけれど、長いこと人と接するのに慣れていなかったので、出来なかった。




