長い旅(六)
ホテルに帰って、「ジェニイ」を読んでいた。途中で中学生のときに一度読んだことに気付いたけれど、何度読んでも何を読んでもギャリコはつくづく面白い。
「ただいま」
声がした、と思った次の瞬間には、うなじにつめたいものが触れていた。シュウの唇。驚きに息が詰まる。
「ただいま」
唇を離して、シュウがもう一度言う。私は寝返りを打ち、おかえり、と言ってあげる。
言葉を待ったけれど、シュウは何も言わず、私の髪に鼻を埋めた。不審に思いながらもじっとしていると、シュウは身を引いて、首をかしげた。
「人間くさい」
ああ、やっぱりわかるのか、と思った。髪を切った後なんかにも、シュウは人間くさいと不満を零す。理屈に合わない気もするけれど、豚小屋の匂いがするようなものかと思えば、ちょっと納得がいく。不愉快だけど。
「今日、人と話したからね」
シュウの髪を指先で梳きながら説明する。シュウは私の耳に唇をつけて尋ねる。
「誰と?」
鼓膜に直接息がかかって、くすぐったい。でも、私は動かない。シュウの髪を梳く。指先に硬いまっすぐな感触が気持ちいい。
「ケーキ屋の男の人」
「だめだよ。お菓子に釣られてついていくなんて」
「反省してます」
「じゃあ許してあげよう」
お仕置きのつもりなのか牙で軽くみみたぶを噛むと、ごろりと私の横に寝転がる。
「それにしても珍しいね」
シュウの声には嫉妬のにおいがしない。どちらかというと面白がっているようだ。少しほっとする。
「お菓子につられちゃったんだろうね。多分」
私は簡単に経緯を説明した。シュウは唇を尖らせて、でも大人しく聞いていた。
「それで、明日、その店に行くの?」
「ケーキは美味しかったから行きたいけど、別に行けないなら行けないでいいよ」
シュウが嫌だと言うのなら、それに逆らってまでしたいことなど私にはない。
「その男、かっこいい?」
「どうかな。多分それなりに」
感じはよかったけれど、どんな髪型でどんな顔だったのか聞かれてもうまく答えられない。
「僕よりも?」
馬鹿げた質問だ。笑ってしまう。
「まさか」
私はシュウの丸い頬を撫でる。柔らかくてつるつるした肌。本当に綺麗な顔をしていて、私は何度でもうっとりと見蕩れる。私のシュウ。可愛い可愛い素敵なシュウ。
「シュウが世界で一番かっこいいよ」
シュウはにっ、と大きく口角を上げる。
「当たり前だよ」
そして、私にキスをする。
「行ってもいいよ。お菓子に勝てるとは思ってない」
「なにそれ」
冗談だと思って私は笑うけれど、シュウは思いのほか真剣な顔をしている。
「本当だよ。欲望は、好意より強い」
シュウの言いたいことがわからなくて、困惑する。
「たとえばシュウが私を食べたくなったら、食べちゃうってこと?」
その例えは的外れだったらしい。シュウは首を振った。
「僕が君に持ってるのは、好意じゃないよ」
ではなんだというのだろう。シュウは私の唇に指でふれる。赤い目が、細い。
「君は僕のともしびなんだ」
「ともしび?」
「そうだよ。君は僕のともしび。灯り。すぐに消えてしまう弱い炎」
「どういうこと?」
わからない。小さく首をかしげると、シュウはできの悪い子供に向ける顔で笑った。
「わからなくてもいいよ。君は食べて寝て元気でのんきにしてればいいんだ」
「何それ。大人ぶって」
頬を軽くつねってやると、つねり返すふりをした後、私の頬を撫でた。
「大人ぶってるんじゃないよ。男としての責任の話をしてるんだ」
「わかりました。あなた」
シュウは華奢な顎で頷いて、無理に低い声を出す。
「うむ」
私は吹き出してしまう。シュウもつられて、二人でくすくす笑い合う。笑いながら、「男としての責任」とか、「あなた」という言葉が、私たちにとって冗談でなくなる日は来ないのだ、と、なぜか思った。
だからどう、ということではない。でも、決して、来ないのだ。私が成人して、中年になって、その後もどんどん年老いていっても。または、歳を取るのをやめたとしても。どちらにせよシュウは、このままだ。綺麗で、可愛い、小さなシュウのままなのだ。
ぐつぐつと胸の中が煮えて、私はシュウの頭を胸に抱きこんで、その形のいい硬い頭蓋骨のてっぺんに、口付けた。




