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夜の人々  作者: 古池ねじ
長い旅
12/24

長い旅(六)

 ホテルに帰って、「ジェニイ」を読んでいた。途中で中学生のときに一度読んだことに気付いたけれど、何度読んでも何を読んでもギャリコはつくづく面白い。


「ただいま」


 声がした、と思った次の瞬間には、うなじにつめたいものが触れていた。シュウの唇。驚きに息が詰まる。


「ただいま」


 唇を離して、シュウがもう一度言う。私は寝返りを打ち、おかえり、と言ってあげる。


 言葉を待ったけれど、シュウは何も言わず、私の髪に鼻を埋めた。不審に思いながらもじっとしていると、シュウは身を引いて、首をかしげた。


「人間くさい」


 ああ、やっぱりわかるのか、と思った。髪を切った後なんかにも、シュウは人間くさいと不満を零す。理屈に合わない気もするけれど、豚小屋の匂いがするようなものかと思えば、ちょっと納得がいく。不愉快だけど。


「今日、人と話したからね」


 シュウの髪を指先で梳きながら説明する。シュウは私の耳に唇をつけて尋ねる。


「誰と?」


 鼓膜に直接息がかかって、くすぐったい。でも、私は動かない。シュウの髪を梳く。指先に硬いまっすぐな感触が気持ちいい。


「ケーキ屋の男の人」

「だめだよ。お菓子に釣られてついていくなんて」

「反省してます」

「じゃあ許してあげよう」


 お仕置きのつもりなのか牙で軽くみみたぶを噛むと、ごろりと私の横に寝転がる。


「それにしても珍しいね」


 シュウの声には嫉妬のにおいがしない。どちらかというと面白がっているようだ。少しほっとする。


「お菓子につられちゃったんだろうね。多分」


 私は簡単に経緯を説明した。シュウは唇を尖らせて、でも大人しく聞いていた。


「それで、明日、その店に行くの?」

「ケーキは美味しかったから行きたいけど、別に行けないなら行けないでいいよ」


 シュウが嫌だと言うのなら、それに逆らってまでしたいことなど私にはない。


「その男、かっこいい?」

「どうかな。多分それなりに」


 感じはよかったけれど、どんな髪型でどんな顔だったのか聞かれてもうまく答えられない。


「僕よりも?」


 馬鹿げた質問だ。笑ってしまう。


「まさか」


 私はシュウの丸い頬を撫でる。柔らかくてつるつるした肌。本当に綺麗な顔をしていて、私は何度でもうっとりと見蕩れる。私のシュウ。可愛い可愛い素敵なシュウ。


「シュウが世界で一番かっこいいよ」


 シュウはにっ、と大きく口角を上げる。


「当たり前だよ」


 そして、私にキスをする。


「行ってもいいよ。お菓子に勝てるとは思ってない」

「なにそれ」


 冗談だと思って私は笑うけれど、シュウは思いのほか真剣な顔をしている。


「本当だよ。欲望は、好意より強い」


 シュウの言いたいことがわからなくて、困惑する。


「たとえばシュウが私を食べたくなったら、食べちゃうってこと?」


 その例えは的外れだったらしい。シュウは首を振った。


「僕が君に持ってるのは、好意じゃないよ」


 ではなんだというのだろう。シュウは私の唇に指でふれる。赤い目が、細い。


「君は僕のともしびなんだ」

「ともしび?」

「そうだよ。君は僕のともしび。灯り。すぐに消えてしまう弱い炎」

「どういうこと?」


 わからない。小さく首をかしげると、シュウはできの悪い子供に向ける顔で笑った。


「わからなくてもいいよ。君は食べて寝て元気でのんきにしてればいいんだ」

「何それ。大人ぶって」


 頬を軽くつねってやると、つねり返すふりをした後、私の頬を撫でた。


「大人ぶってるんじゃないよ。男としての責任の話をしてるんだ」

「わかりました。あなた」


 シュウは華奢な顎で頷いて、無理に低い声を出す。


「うむ」


 私は吹き出してしまう。シュウもつられて、二人でくすくす笑い合う。笑いながら、「男としての責任」とか、「あなた」という言葉が、私たちにとって冗談でなくなる日は来ないのだ、と、なぜか思った。


 だからどう、ということではない。でも、決して、来ないのだ。私が成人して、中年になって、その後もどんどん年老いていっても。または、歳を取るのをやめたとしても。どちらにせよシュウは、このままだ。綺麗で、可愛い、小さなシュウのままなのだ。


 ぐつぐつと胸の中が煮えて、私はシュウの頭を胸に抱きこんで、その形のいい硬い頭蓋骨のてっぺんに、口付けた。

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