長い旅(七)
結論から言うと、私はケーキ屋に行った。ケーキを食べたかったし、杉山さんのことも、嫌ではなかったからだ。
「いらっしゃいませ!」
入った瞬間に、杉山さんが笑顔で迎えてくれた。その勢いに押されて、私は一歩後退った。
「……こんにちは」
「こんにちは。来てくれたんですね」
「はい、まあ」
私は既にショーケースに意識が移りかけていた。やっぱりここのケーキは、すごく美味しそうだ。平日の昼間なので、今日も他に客はいない。
「美味しそう……」
「美味しいですよ。どれがいいですか?」
「ええっと……」
一つ一つのケーキをじっと見る。もうナッツのタルトといちじくのショートケーキは食べた。木苺のチーズケーキの色合いや、キャラメルと洋ナシという組み合わせにもとても心惹かれる。タルト生地がとても美味しかったのでチェリーのタルトも食べてみたいし、メレンゲとクリームだけのシンプルなものも珍しくて興味がある……。本当に、どれにしよう。
「ほら、その顔」
声をかけられて顔を上げる。杉山さんは、笑いをこらえ切れない、と言った様子で唇を歪ませていた。
「こんなに真剣に選ぶ人、見たことがない」
からかいの中に、何か他のものが滲んだ声。私は無言でケースに視線を戻す。どれにすればいいだろう。何が一番食べたいだろう。綺麗な美味しそうなケーキたち。
「どれがお勧めですか?」
結局、困ってしまって尋ねてしまう。杉山さんは身体をこちらに乗り出すようにして、説明してくれる。
「秋の商品ではキャラメル・ポワールが僕は一番好きですね。ここのキャラメルは少し苦味があるんで、もしそういうのが平気ならお勧めです。あとメレンゲ・シャンティもいいですよ。シンプルですけど、すごく美味しいと思います。ただ、これもキャラメルっぽい味ですね。酸味があるのがいいならレモンタルトもいいですよ。中にレモンカード、すっぱいレモンのソースが入っていて、上のクリームが甘めなので、バランスもいいです」
「二つ食べてもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、キャラメル・ポワールとレモンタルト」
「はい。飲み物はホットコーヒーでいいですか?」
「はい。あの、本当に奢ってくれるんですか?」
杉山さんは苦笑した。
「そんな嘘ついて店に呼んだりしませんよ。勿論ご馳走します。今、他のお客さんいなくてよかった」
そんなことでこの店は大丈夫なんだろうか。私は曖昧な笑顔を作る。
テーブルの席に座り、文庫本を取り出す。それでも、ここが居心地のいいお店だということは、否定できない。甘いケーキの匂いに包まれて「ジェニイ」を読んでいると、ケーキとコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせしました。ギャリコ、好きなんですか? それとも猫が?」
「ギャリコは好きです。猫は、嫌いじゃないです」
「珍しいですね。僕、女の人はみんな猫が好きなのかと思っていました」
「ていうか私、あんまり生き物って好きじゃないんです」
テーブルにケーキとコーヒーを置き、トレイを小脇に抱えた杉山さんは首を傾げる。
「人間も?」
多分、冗談なのだろう。でも虚をつかれた私は、ぽかんと杉山さんを見上げてしまう。一瞬気まずい空気が流れかけたので、私は笑ってみせる。
「そんなに好きじゃないです」
杉山さんも笑ってくれた。
「じゃあ、空気読んで人間は去りますね。ごゆっくり」
「はい」
私はコーヒーを一口飲む。そして、ケーキを眺める。キャラメル・ポワールは正確な長方形。レモンタルトは円形。どちらもとても美味しそうだ。つい微笑んでしまう。
ふと視線を感じて顔を上げると、ショーケースの奥に引っ込んだ杉山さんが、こちらを見ていた。軽く手を上げて挨拶してくる。私は苦笑して、フォークを取った。
ケーキを食べている間に、お客さんが何人かやってきたけれど、カフェに来る人はいなかった。近所の人が多いようで、杉山さんは気さくに、時にはお客さんと話し込んだりしながら接客をしていた。
ケーキも食べ、「ジェニイ」も読み終わったので帰ろうと荷物を片付けていると、杉山さんが寄ってきた。
「お帰りですか?」
「はい。ケーキ、美味しかったです」
杉山さんはにこっと笑った。
「見てればわかりました」
失礼な話だとは思うが、杉山さんが本当に嬉しそうなので、怒る気にはなれなかった。私はこの人を、最初に考えたよりもはるかに気に入ってしまっていた。人格を、というよりは、この人の人との距離感が好ましかった。近いけど、べたべたしない。
「ご馳走様でした」
小さく頭を下げる。すると、杉山さんは小さなカードを差し出してくる。受け取ると、お店の情報が載っているカードだった。ボールペンの跡がついているので裏返すと、真っ白な面に「杉山広道」と杉山さんのフルネーム、そして、電話番号とアドレスが書いてあった。読みやすい、どことなくお洒落な雰囲気の字だ。見覚えがあるな、と思ったら、ショーケースに置いてあるケーキのカードの字と同じもののようだった。
どういうつもりなのかと顔を見ると、杉山さんは気まずそうに笑っていた。よく焼けた目元が少し赤い。
「いらなかったら捨ててください」
私は微笑んで、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございます。ご馳走様です」
そして、お店を後にした。カードは鞄のポケットに入れておいた。すぐには捨てないけれど、次に鞄の中身を整理するときにでも捨ててしまうだろう。いらないものだ。
それでも杉山さんとはもう二度と会うことはないんだな、と思うと、少し惜しい気もした。少しだけ。




