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夜の人々  作者: 古池ねじ
長い旅
13/24

長い旅(七)

 結論から言うと、私はケーキ屋に行った。ケーキを食べたかったし、杉山さんのことも、嫌ではなかったからだ。


「いらっしゃいませ!」


 入った瞬間に、杉山さんが笑顔で迎えてくれた。その勢いに押されて、私は一歩後退った。


「……こんにちは」

「こんにちは。来てくれたんですね」

「はい、まあ」


 私は既にショーケースに意識が移りかけていた。やっぱりここのケーキは、すごく美味しそうだ。平日の昼間なので、今日も他に客はいない。


「美味しそう……」

「美味しいですよ。どれがいいですか?」

「ええっと……」


 一つ一つのケーキをじっと見る。もうナッツのタルトといちじくのショートケーキは食べた。木苺のチーズケーキの色合いや、キャラメルと洋ナシという組み合わせにもとても心惹かれる。タルト生地がとても美味しかったのでチェリーのタルトも食べてみたいし、メレンゲとクリームだけのシンプルなものも珍しくて興味がある……。本当に、どれにしよう。


「ほら、その顔」


 声をかけられて顔を上げる。杉山さんは、笑いをこらえ切れない、と言った様子で唇を歪ませていた。


「こんなに真剣に選ぶ人、見たことがない」


 からかいの中に、何か他のものが滲んだ声。私は無言でケースに視線を戻す。どれにすればいいだろう。何が一番食べたいだろう。綺麗な美味しそうなケーキたち。


「どれがお勧めですか?」


 結局、困ってしまって尋ねてしまう。杉山さんは身体をこちらに乗り出すようにして、説明してくれる。


「秋の商品ではキャラメル・ポワールが僕は一番好きですね。ここのキャラメルは少し苦味があるんで、もしそういうのが平気ならお勧めです。あとメレンゲ・シャンティもいいですよ。シンプルですけど、すごく美味しいと思います。ただ、これもキャラメルっぽい味ですね。酸味があるのがいいならレモンタルトもいいですよ。中にレモンカード、すっぱいレモンのソースが入っていて、上のクリームが甘めなので、バランスもいいです」

「二つ食べてもいいですか?」

「もちろん」

「じゃあ、キャラメル・ポワールとレモンタルト」

「はい。飲み物はホットコーヒーでいいですか?」

「はい。あの、本当に奢ってくれるんですか?」


 杉山さんは苦笑した。


「そんな嘘ついて店に呼んだりしませんよ。勿論ご馳走します。今、他のお客さんいなくてよかった」


 そんなことでこの店は大丈夫なんだろうか。私は曖昧な笑顔を作る。


 テーブルの席に座り、文庫本を取り出す。それでも、ここが居心地のいいお店だということは、否定できない。甘いケーキの匂いに包まれて「ジェニイ」を読んでいると、ケーキとコーヒーが運ばれてきた。


「お待たせしました。ギャリコ、好きなんですか? それとも猫が?」

「ギャリコは好きです。猫は、嫌いじゃないです」

「珍しいですね。僕、女の人はみんな猫が好きなのかと思っていました」

「ていうか私、あんまり生き物って好きじゃないんです」


 テーブルにケーキとコーヒーを置き、トレイを小脇に抱えた杉山さんは首を傾げる。


「人間も?」


 多分、冗談なのだろう。でも虚をつかれた私は、ぽかんと杉山さんを見上げてしまう。一瞬気まずい空気が流れかけたので、私は笑ってみせる。


「そんなに好きじゃないです」


 杉山さんも笑ってくれた。


「じゃあ、空気読んで人間は去りますね。ごゆっくり」

「はい」


 私はコーヒーを一口飲む。そして、ケーキを眺める。キャラメル・ポワールは正確な長方形。レモンタルトは円形。どちらもとても美味しそうだ。つい微笑んでしまう。


 ふと視線を感じて顔を上げると、ショーケースの奥に引っ込んだ杉山さんが、こちらを見ていた。軽く手を上げて挨拶してくる。私は苦笑して、フォークを取った。



 ケーキを食べている間に、お客さんが何人かやってきたけれど、カフェに来る人はいなかった。近所の人が多いようで、杉山さんは気さくに、時にはお客さんと話し込んだりしながら接客をしていた。


 ケーキも食べ、「ジェニイ」も読み終わったので帰ろうと荷物を片付けていると、杉山さんが寄ってきた。


「お帰りですか?」

「はい。ケーキ、美味しかったです」


 杉山さんはにこっと笑った。


「見てればわかりました」


 失礼な話だとは思うが、杉山さんが本当に嬉しそうなので、怒る気にはなれなかった。私はこの人を、最初に考えたよりもはるかに気に入ってしまっていた。人格を、というよりは、この人の人との距離感が好ましかった。近いけど、べたべたしない。


「ご馳走様でした」


 小さく頭を下げる。すると、杉山さんは小さなカードを差し出してくる。受け取ると、お店の情報が載っているカードだった。ボールペンの跡がついているので裏返すと、真っ白な面に「杉山広道」と杉山さんのフルネーム、そして、電話番号とアドレスが書いてあった。読みやすい、どことなくお洒落な雰囲気の字だ。見覚えがあるな、と思ったら、ショーケースに置いてあるケーキのカードの字と同じもののようだった。


 どういうつもりなのかと顔を見ると、杉山さんは気まずそうに笑っていた。よく焼けた目元が少し赤い。


「いらなかったら捨ててください」


 私は微笑んで、もう一度頭を下げた。


「ありがとうございます。ご馳走様です」


 そして、お店を後にした。カードは鞄のポケットに入れておいた。すぐには捨てないけれど、次に鞄の中身を整理するときにでも捨ててしまうだろう。いらないものだ。


 それでも杉山さんとはもう二度と会うことはないんだな、と思うと、少し惜しい気もした。少しだけ。

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