長い旅(八)
新しい文庫本を読みながら、チェーンのカフェで今日二杯目のコーヒーを飲んでいる。文庫本はアナイス・ニンの「小鳥たち」。どこがどう、とはいえないが、とても好きな感じだ。こういう本に出会うととても嬉しくなる。
「や」
耳慣れた声に振り返る。そのままぽかんと見蕩れてしまう。
「何?」
澄ました顔でシュウは尋ね、テーブルの向かいに座る。シャツにベージュのニットのカーディガン、グレーのヘリンボーンのズボン。頭にはズボンと同じ素材のキャスケット。ネクタイまでしている。いつもとは全然違う、ヨーロッパの映画に出てくる少年のような恰好をしたシュウ。白い肌と整った目鼻立ちと幼い頬と、自信に溢れた表情が不思議に調和している。見ているだけで、お腹の奥がぞわぞわする。
「素敵」
我ながら、うっとりとした声が漏れた。シュウは得意げに赤い目を細める。
「君を喜ばせるのって、簡単だな」
「そうだよ。でも、素敵」
本当にあんまりにも素敵なので、私は簡単に屈服してしまう。シュウの帽子を取ったりかぶせたりを繰り返す。シュウもあきれているけれど、ちっとも見飽きない。私のシュウは、本当になんて素敵なんだろう。
「あきれた顔も可愛い」
そう言う私の手から帽子をすばやく奪い返して深く被る。その仕草も、残しておきたいほど可愛らしい。
「はいはい。でも、そろそろ行くよ。部屋を取ったら好きなだけ遊んであげるからさ」
「うん」
昨日の夜に、今日出発するといわれていたのだ。文庫本をしまい、コーヒーカップを片付ける。
カフェを出るときに、シュウが手を繋いでくれた。柔らかな冷たい手。胸にとろりと甘いものが流れ込んでくる。私たちはお互いをとても好きだと思っている。当たり前のことになっているけれど、それがこんなに楽しくうれしいことだと思い知る。
「ねえ、なんでそんな恰好なの?」
尋ねると、シュウが帽子のつばからこちらを見上げてくる。
「たまにはご機嫌取りでもしようかと思ってさ」
その場で抱きしめて、キスをしたくなった。でもそういうわけにはいかないので、私は握る手にきゅっと力を込めた。キスなんてもう数え切れないほどしているけれど、まだまだしたくてたまらない瞬間がある、という幸福に、むずがゆくなる。
シュウが大好きだ。
駅前で夕食を軽く食べた後、シュウをその辺りに置いておいて、券売機で二人分の切符を買う。おつりを財布にしまっていると、
「小川さん」
と声をかけられた。
またか。
ぱちりと財布の小銭入れを閉じ、半ば諦めたような気分で振り向くと、杉山さんがいた。やっぱり。
「……こんばんは」
「こんばんは。行っちゃうんですか?」
少し迷った後、頷いた。
「……そんなに遠くに行くわけでもないですけど」
言い訳のように付け加えてしまう。
「……そう、ですか。気をつけて」
杉山さんの声にも視線にも、確かに今までとは違うものが滲んでいる。それから逃げるように、小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。杉山さんは、家に帰るところですか?」
「あ、はい」
そして、二駅先の駅名を告げた。
「同じ方向だったら、一緒に行きませんか?」
同じ方向だったけれど、私は首を振った。
「逆です」
この嘘は、すんなりと出て来た。どうせシュウが来るのだから、一緒に行くわけにはいかないのだ。もしシュウがいなかったら、と考えかけて、やめる。そんな仮定は、無意味だ。現実にシュウはいて、私はシュウと旅をしている。
「そう、ですか……」
券売機の前で立ち止まっているわけにはいかないので、少し脇にずれる。杉山さんもついてくる。
「残念です」
そんなに率直に言われても、どうしていいのかわからなくなる。
「もう少しだけ、話せませんか?」
連れがいる、と言おうとして、シュウが目に見える場所にはいないことに気付いた。多分、何か目新しいもの、宣伝用のテレビとか、タッチパネル式の自販機とかに夢中になっているのだろう。よくあることなのだけれど、困った。こうなると、シュウは気が済むまで帰ってこない。
「だめですか?」
私は杉山さんを見上げた。この人は、今私にここにいてほしいのだ、と強く感じた。嫌いじゃない相手に求められたときに、普通人はどんなふうに相手を拒むのだろう? 私にはわからない。曖昧に微笑むことしかできない。
杉山さんの顔に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。間違った了解をされたのだと分かった。
目尻の感じのいい皺。白い、きれいに並んだ歯。私がここにいることで、喜ぶ人がいる。杉山さんに対する私への気持ちは全く関係なく、その事実に、私は動けなくなる。改札に向かう人の波にぶつかりかけた私の肩を、杉山さんが覆う。あたたかい、大きな手。私は大きい身体に一歩、近づく。
だめだと、どうして言えなかったのだろう。だめだったのに。




