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夜の人々  作者: 古池ねじ
長い旅
14/24

長い旅(八)

 新しい文庫本を読みながら、チェーンのカフェで今日二杯目のコーヒーを飲んでいる。文庫本はアナイス・ニンの「小鳥たち」。どこがどう、とはいえないが、とても好きな感じだ。こういう本に出会うととても嬉しくなる。


「や」


 耳慣れた声に振り返る。そのままぽかんと見蕩れてしまう。


「何?」


 澄ました顔でシュウは尋ね、テーブルの向かいに座る。シャツにベージュのニットのカーディガン、グレーのヘリンボーンのズボン。頭にはズボンと同じ素材のキャスケット。ネクタイまでしている。いつもとは全然違う、ヨーロッパの映画に出てくる少年のような恰好をしたシュウ。白い肌と整った目鼻立ちと幼い頬と、自信に溢れた表情が不思議に調和している。見ているだけで、お腹の奥がぞわぞわする。


「素敵」


 我ながら、うっとりとした声が漏れた。シュウは得意げに赤い目を細める。


「君を喜ばせるのって、簡単だな」

「そうだよ。でも、素敵」


 本当にあんまりにも素敵なので、私は簡単に屈服してしまう。シュウの帽子を取ったりかぶせたりを繰り返す。シュウもあきれているけれど、ちっとも見飽きない。私のシュウは、本当になんて素敵なんだろう。


「あきれた顔も可愛い」


 そう言う私の手から帽子をすばやく奪い返して深く被る。その仕草も、残しておきたいほど可愛らしい。


「はいはい。でも、そろそろ行くよ。部屋を取ったら好きなだけ遊んであげるからさ」

「うん」


 昨日の夜に、今日出発するといわれていたのだ。文庫本をしまい、コーヒーカップを片付ける。


 カフェを出るときに、シュウが手を繋いでくれた。柔らかな冷たい手。胸にとろりと甘いものが流れ込んでくる。私たちはお互いをとても好きだと思っている。当たり前のことになっているけれど、それがこんなに楽しくうれしいことだと思い知る。


「ねえ、なんでそんな恰好なの?」


 尋ねると、シュウが帽子のつばからこちらを見上げてくる。


「たまにはご機嫌取りでもしようかと思ってさ」


 その場で抱きしめて、キスをしたくなった。でもそういうわけにはいかないので、私は握る手にきゅっと力を込めた。キスなんてもう数え切れないほどしているけれど、まだまだしたくてたまらない瞬間がある、という幸福に、むずがゆくなる。


 シュウが大好きだ。



 駅前で夕食を軽く食べた後、シュウをその辺りに置いておいて、券売機で二人分の切符を買う。おつりを財布にしまっていると、


「小川さん」


 と声をかけられた。


 またか。


 ぱちりと財布の小銭入れを閉じ、半ば諦めたような気分で振り向くと、杉山さんがいた。やっぱり。


「……こんばんは」

「こんばんは。行っちゃうんですか?」


 少し迷った後、頷いた。


「……そんなに遠くに行くわけでもないですけど」


 言い訳のように付け加えてしまう。


「……そう、ですか。気をつけて」


 杉山さんの声にも視線にも、確かに今までとは違うものが滲んでいる。それから逃げるように、小さく頭を下げる。


「ありがとうございます。杉山さんは、家に帰るところですか?」

「あ、はい」


 そして、二駅先の駅名を告げた。


「同じ方向だったら、一緒に行きませんか?」


 同じ方向だったけれど、私は首を振った。


「逆です」


 この嘘は、すんなりと出て来た。どうせシュウが来るのだから、一緒に行くわけにはいかないのだ。もしシュウがいなかったら、と考えかけて、やめる。そんな仮定は、無意味だ。現実にシュウはいて、私はシュウと旅をしている。


「そう、ですか……」


 券売機の前で立ち止まっているわけにはいかないので、少し脇にずれる。杉山さんもついてくる。


「残念です」


 そんなに率直に言われても、どうしていいのかわからなくなる。


「もう少しだけ、話せませんか?」


 連れがいる、と言おうとして、シュウが目に見える場所にはいないことに気付いた。多分、何か目新しいもの、宣伝用のテレビとか、タッチパネル式の自販機とかに夢中になっているのだろう。よくあることなのだけれど、困った。こうなると、シュウは気が済むまで帰ってこない。


「だめですか?」


 私は杉山さんを見上げた。この人は、今私にここにいてほしいのだ、と強く感じた。嫌いじゃない相手に求められたときに、普通人はどんなふうに相手を拒むのだろう? 私にはわからない。曖昧に微笑むことしかできない。


 杉山さんの顔に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。間違った了解をされたのだと分かった。


 目尻の感じのいい皺。白い、きれいに並んだ歯。私がここにいることで、喜ぶ人がいる。杉山さんに対する私への気持ちは全く関係なく、その事実に、私は動けなくなる。改札に向かう人の波にぶつかりかけた私の肩を、杉山さんが覆う。あたたかい、大きな手。私は大きい身体に一歩、近づく。


 だめだと、どうして言えなかったのだろう。だめだったのに。


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