長い旅(九)
少し残酷な表現があります。
人間っていうのは、こんなにあたたかいものなのか。
杉山さんの手のひらの中で、私の手は汗をかいている。くすぐったい。手を離してほしいけれど、どうやってやればいいのかわからない。二年前まで、私はこんな生き物たちと一体どうやって暮らしていたのだろう? 思い出せない。
思い出したくない。
杉山さんは私の手を引いて、ゆっくりと歩いている。言葉はない。どこに行こうとしているのだろう。シュウはどこにいるのだろう。
ついたのは、小さな公園だった。ブランコと、ほんのちょっとしか遊具しかない。電灯が切れかけて、ぱちぱちと明滅している。握られた手が離れて、心底ほっとした。
「ベンチ、座りますか?」
私は首を振る。ずっと持ち歩いていた荷物が、少し重たい。
「なんか、話せる場所、他に思いつかなくて」
「いいですよ。どこでも」
よかった、と杉山さんは笑う。ぱち、と電灯が黄色い光を放って、歯と白目の白さばかりが目に焼きついた。眩しい。目を細めてしまう。
「お別れなんですね」
答えに困って、私は微笑む。こんなときに何を言えばいいのだろう?
ついてきてしまったことを、後悔していた。それだけじゃなく、今日お店に行ってしまったこと、本屋で誘われたときに断れなかったこと、そもそもいつもは行かないような小さなお店に入ってしまったことから、全部。やるべきじゃなかったのだ。シュウが許してくれたからといって、そもそも人に関わらせる隙を、作ってしまうべきじゃなかった。
次からは、こんなことがないようにしよう。早く駅に帰りたい。シュウに会いたい。
「小川さんはなんだかいつも、困っていますね」
考えていることを見抜かれたことに驚いて、杉山さんの目を真正面から見てしまう。杉山さんの目も、まっすぐ私に向けられている。
「違うな。僕が困らせているんですね。多分」
頷くことも否定することもできない私に、杉山さんは不思議に優しい笑みを浮かべる。その顔にも、私は困ってしまう。優しくされても私には返せるものが一つもない。そして、そう考えること自体、与えられたものに報いたいと考えること自体が、今の私には受け入れがたいことだった。旅を始めてからずっと、人はただの集団で、シュウの狩り場だった。注意も関心ももたれないようにこっそりと、奪い取ったり掠め取ったりする対象であって、お互いに与え合う関係を築く場所じゃない。こんなのは、違う。
「どうして旅をしているのか、聞いたらもっと困りますか?」
「……困ります」
「じゃあ、聞きません。本当は、もっと困らせてみたいですけど」
冗談だと分かっているのに、笑うことも忘れて、眉を寄せてしまう。
「すみません。僕、小川さんといると、少し変になるみたいです」
「少し?」
「じゃ、ないですね。すみません……なんだか、これが最後だって考えると、焦っちゃって」
「最後も何も、一昨日会ったばっかりですよ」
自分に言い聞かせるように告げる。
「そうですね。でも……一昨日から、は……ちょっと言いすぎですけど、昨日からずっと、小川さんのことばっかり考えてましたよ」
「信じません」
嘘だった。そして、この嘘はあまり有効な嘘じゃなかったことに、手をもう一度握られて、気付いた。これではまるで、信じさせてくれと言っているみたいだ。
「どうしたら信じてもらえますか?」
どっちだっていいのに。杉山さんの言っていることが本当でも嘘でも、そんなのどっちだっていい。でも、私にはそれを言うことはできない。他人から隠れてばかりいたから、適切な向き合い方をもう忘れてしまっていた。
「……手を離してくれたら」
なんとかそう言ったけれど、離してくれなかった。一層、しっかりと握られる。あたたかい、大きな手。杉山さんは微笑んだ。
「それなら信じてくれなくても、いいです」
もうどうすればいいのだろう。
本当に困るのは、杉山さんが、私の意に沿わないのに、あくまで優しいということだった。私が本当に嫌がれば、この人はすぐにやめてくれるだろう。でも、嫌ではなかった。少し強引なところも、あたたかい手も。この人のどこも、嫌ではなかった。
違う。違う。嫌ではないのでは、なくて。
ああ、手が、あたたかい。
「また、困った顔をしてる」
耳に入る声まであたたかい。私はもう泣きそうになっていた。
「小川さん」
奥歯を噛み締めて、泣き出してしまわないよう、俯いた。
「また、会えますか?」
「無理だね」
静かな、つめたい声。驚きにひゅっ、と肺が縮まる。顔を上げる。
目に飛び込んできたのは、赤い瞳だった。夜の中でも生々しく赤い、二つの瞳。温度のない、人のものではない、瞳。
シュウ。
それは、あっという間の出来事だった。
振り返ろうとした杉山さんに、小さな身体が飛び掛る。上半身にしがみつかれて、重みで杉山さんは前のめりになる。繋がれていた手が引っ張られて、私も地面に膝をつく。目の前にはむき出しの杉山さんの首筋。日に焼けた皮膚が、電灯に照らされて光る。
そこに、シュウが噛み付いた。
何かが破れる音。そして、砕ける音。
黒いものが顔に向かって飛んできて、反射で目を閉じる。荷物が手から落ちた。よけることは出来ず、ひどく熱い塊が頬にぶつかった。何、と思うのと同時に、生暖かい液体になって、顔を伝い、顎から地面に落ちた。なじみのある、鼻にこびりつく匂い。
血だ。
目を開けると、シュウが私を見ていた。地面に座り、杉山さんの身体にしがみつき、太い首筋が歪むほどの力で、噛み付いている。ずっ、ずっ、と、血を啜り上げる音。垣間見える喉は忙しなく動く。それでも二つの赤い瞳は、獲物ではなく、私を見ている。
握る力がなくなって、大きな手が、私の手を離す。体重を支えきれず、私は地面に手をついてしまう。砂と小石が皮膚に当たって、痛い。
ずずっ、と、それまでよりも長く一息に啜ると、シュウは獲物から口を離した。同時に力の抜けた大きな身体を地面に突き放す。重たい音を立てて、死体が地面に転がる。さっきまで杉山さんだったもの。開いた、というよりは、閉じる力をなくしたような目と、口。白い歯のきれいなアーチが、よく見える。
シュウは立ち上がる。口の周りは血まみれで、シャツと、ブラウスの胸元まで血に染まっている。
「言ったじゃないか。お菓子につられちゃだめだって」
血まみれのまま、シュウは唇を尖らせる。
「ごめん」
シュウは諦めたように笑う。
「まあ、いいさ。君が無事なら。なんだって」
そしてズボンのポケットからハンカチを出すと、私の顔を優しく拭ってくれた。
「シュウは?」
尋ねると、ああ、と手の甲で顔を拭うような仕草をした。その途端、汚れは消えた。顔も服も、さっき洗ったばかりのような清潔さだ。
「これも片付けなくちゃね」
だらしなく地面に伸びた死体を、革靴のつま先で、軽く蹴る。すると、黒いしみのようなものがそこから広がり、死体を覆った。黒い一塊は、不穏に震えると、そのまま端から砂が崩れるようにして、消えてしまった。地面には、血の一つも落ちてはいない。重いものが落ちた凹みさえない。
「……消えた」
「消えちゃいないよ。そのうち山かどこかで身元不明の死体が見つかるさ」
どういう理屈なのか、私にはまるでわからない。
「行こうか。遅くなっちゃうよ」
何でもないことのように言い、私に手を差し出す。小さな、子供の手。私はそこに、そっと自分の手を置いた。いつものように。
シュウの手は、つめたかった。いつものように。どうしてだか、肩が竦んだ。




