長い旅(十)
シュウと私は、二人がけの席に手を繋いで、並んで座っている。いつものようにシュウが窓側だ。シュウの手はつめたい。この二年ですっかり馴染んだ、柔らかい、小さな手。
繋いでいるうちに手が冷え切ってしまうので、ときどき離して、手でこすったり、太ももの下に敷いたりして温度を戻すと、また繋ぐ。でもすぐに冷えてしまう。その繰り返しだ。
杉山さんの手は、あたたかかった。
思い出した途端、電車がカーブで揺れた。内臓がぐらりとして、吐き気に似たものが喉を突き上げてくる。明滅する電灯。白い歯のアーチ。顔を伝った熱い液体。あれは全部本当にあったことなのだろうか?
「大丈夫?」
シュウが、私の顔を覗き込んでくる。さっきまで窓の外に夢中だったのに、いつこちらを見ていたのだろう。
「顔色が悪い。また風邪?」
喉の違和感で、声を出すのが躊躇われて、私は小さく首を振った。ついでに安心させるために笑ってあげたかったけれど、できなかった。どうしてかはわからない。
シュウの顔が明らかに不安げに歪む。それだけで、私は泣きそうになった。シュウは、繋いでいた手にもう一方の手も添えて、私の手を包んだ。
心臓が紙みたいに薄っぺらくなって、くしゃりと握りつぶされる。私はすっかり弱くなってしまって、シュウの自分のよりも低い位置にある細い肩に、顔を伏せた。身体を不自然に折り曲げて。
シュウの右手が、私の背中に回り、身体を引き寄せてくる。私はシュウにぴったりとくっついた。シュウの手が、背中をゆっくりとなでてくれる。つめたい手。つめたい身体。
寒い。
「ごめんね」
耳元で、シュウが言った。細い声。
謝らないで。
声がまだ出せなくて、胸の中だけで言った。謝らないでほしかった。シュウが悪いんじゃない。それはわかっていた。シュウは何も悪くない。最初から、シュウは一つも悪いことなんてしていない。
「ごめんね」
それでもシュウは、繰り返した。私はそれを止めることも出来ず、ただただシュウに、身体を押し付けた。窮屈に縮こまって。
寒い。とても、寒い。
そのまま少し、夢を見た。正確には夢とは違うかもしれない。眠っていた感覚はないけれど、頭の中に切れ切れにいろんなことが浮かぶ。私自身の意識はおぼろげだけれど、浮かんだものの記憶は残っている。もしかしたら、これを白昼夢というのかもしれない。
いろんなことが浮かんだ。ついさっき起こったことから、ほとんど忘れていたようなこと、思い出さないようにしていたことまで。いろいろなこと。でも、全部、ひどいものだった。おぞましいもの。血や、死の記憶。殺戮の記憶。瞼の裏を次々に翻っていく。
「つぎで降りるよ」
シュウの声で、私は意識を現実に戻す。見上げると、シュウの顔が思いのほか近くにあった。白い丸い頬に睫があわい影を落としている。赤い小さな、ふっくらとした唇。シュウの顔がこんなにあどけないのが、今更ながら奇妙だった。
私のシュウ。シュウが二年前からの私の全てだった。他のものはどうでもよかった。それまでどんなに大切だったものの、全部。
「大丈夫?」
私は肯定も否定もしなかった。ただ身体を元の位置に戻した。シュウに触れていた全ての部分が冷えていた。シュウはそれをじっと見つめていた。赤い瞳。
私たちは目的地に着くと、宿を取った。部屋に入るとシュウは私に寝ているように言い、私は大人しくベッドに入った。眠れる気はしなかったけれど、目を瞑る。少しすると、お風呂場から水音が聞こえた。お風呂を溜めているようだ。
「ごめんね」
部屋に戻ると、シュウは閉じた私の瞼に静かに、触れるか触れないか、と言ったささやかさで触れた。
「あやまらないで」
今度は声が出た。ひどく掠れたものになったけれど。
「もう、謝らないで。シュウが悪いんじゃないから」
「うん。でも、あんまり見せるものじゃなかった」
見せるものじゃない。なぜだろう。あれはシュウにとってはただの食事のはずなのに。それを私に見せられないということがあるだろうか?
その質問の答えを私は用意できなかった。違う。用意された答えから、目を背けた。怖かった。
「……お風呂、溜めてくれたの?」
「うん。薔薇の花弁でも散らせてあげればもっといいんだけど」
その冗談に、私は僅かに唇の端を持ち上げた。シュウの指が、前髪をさらさらとなぞる。
「君、疲れてるみたいだからさ」
「うん……」
お風呂にゆっくり入れば、この疲れも癒えるだろう。とは、今の私にはあまり思えなかった。ではどうすればいいのかも、わからなかった。時間が解決してくれる? そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない。私は混乱していた。この旅を始めてから、こんなことは今までになかった。
おかしなことだ。こんなことで混乱するというのなら、二年前、あのときにこそ、すべきだったのに。
あの時はなんでもなかったのだ。だから今だって、なんでもなくなければ、おかしい。おかしい。
「大丈夫?」
シュウの声に、私は目を開けた。
「お風呂、一緒に入ってくれる?」
大丈夫と答えるかわりに、そう言った。
シュウは微笑んだ。
「お湯に引き摺りこまないって約束してくれるなら、ね」




