長い旅(二)
昼前に本を読み終わってしまったので、それを捨てて新しい本を買った。ブラッドベリの「十月はたそがれの国」。面白いけれど、のめりこむタイプの話じゃない。ぼんやりと読んだり、辺りを眺めたりしながら過ごす。
私がいるのはチェーンのカフェだ。二人がけの小さいテーブルの上には半分減ったアイスコーヒーと一口だけ食べたチーズケーキ。店内は半分ぐらい埋まっている。私はこういうお店に行くことが多い。それなりに賑わっているチェーンのカフェ。別にこういうところが好きなわけではなく、他に居場所がないのだ。誰の印象にも残りたくないし、関心も向けられたくない。
ガラス越しに外を見ると、秋の日はもう暮れかけていた。人が、たくさんいる。とてもたくさん。みんなそれぞれ違った恰好をして、違った顔をして、違った歩き方で歩く。多分、その違いはとても大切なことなのだろう。ブラッドベリとバルガス・リョサが違うように。
でも、そんなのはどうでもいいと思ってしまう。たくさんの人。人の群。羊の群、魚の群と同じだ。個体に違いを見出そうとすれば、いくらでも見出せる。逆に言えば、あえて見出そうとしなければ、それは「群」としか認識できない。個体に意味はない。
うんざりして、チーズケーキを一口食べた。ここのチーズケーキはずっしりしていて好きだ。私は甘いものが好きだ。きちんとした食事も取らずに甘いものばかり食べることが、よくある。多分身体にはよくないけれど、この二年体重を計ったことも健康診断を受けたこともないから、どうでもいいと思ってしまう。
人の流れを見たり、本を読んだりしていると、あっという間に窓の外が暗くなる。秋の日は、暮れかけてからがとても早い。つるべおとし、と中学のときに教師が言っていた。
「ここ、空いてますか」
不意に、声をかけられる。私は本を閉じる。
「連れを待っているので」
「恋人ですか?」
「いえ、息子です」
「やあ、ママ」
正面の席に、シュウが座る。堪えきれずに噴出してしまう。
「何、ナンパ?」
「うん。ちょっとやってみたかったんだ」
シュウも笑う。私は手を伸ばしてその頭を撫でる。丸い可愛い頭。
「おかえり」
「うん。ただいま」
日が沈むまで、シュウとはたいがい別行動を取る。人気のないところで休息しているということだけれど、詳しいことはよくわからない。
「いい子にしてた?」
シュウが尋ねる。私は頷く。
「それなりにね」
「そう。いい子だ」
シュウも私の頭を撫でる。赤い目が笑みに細くなる。
不思議なことだけれど、これだけ特殊な姿なのに、シュウに注目する人はほとんどいない。多分、何がしかの力が作用しているのだと思うけれど、わからない。シュウのことは、二年も一緒にいるのに、ほとんどわかっていない。でも全てを知りたいわけでもないから、それでいい。
「何?」
じっと自分を見ている私に、シュウが首を傾げる。私は微笑む。
「シュウは可愛いなと思って」
目を瞠った後、眉を寄せる。
「やめろよ」
不服そうにつんと唇を尖らせる顔が可愛くって、頭をぐしゃぐしゃにしてしまいたくなった。ふふ、と声に出して笑う。シュウはちょっと眉を寄せたあと、テーブルの上にあるものに目を留める。
「またケーキか」
「いけない?」
「いや、女の子だなと思ってさ」
「シュウも食べる?」
チーズケーキを切り取ったフォークを口元に寄せると、また不服そうに唇を尖らせた。
「やめろよ。僕はそんないかもの食いじゃない」
いかもの食い、という言葉は耳慣れないけれど、意味は分かったので大人しくフォークを引っ込める。
「ケーキは食べないの?」
シュウは頷く。
「食べないよ。女の子の食べ物だ」
ときどき、シュウは思ったより年を取っているんじゃないかと思う。偏屈なのだ。もっとも、小さい男の子というのも偏見が強い生き物なんだけれど。
私はシュウに拒否されたチーズケーキを口に入れる。美味しい。
ふと好奇心が働いて、尋ねてみる。
「シュウって、普通のもの食べないの?」
何を当たり前のことを、という顔で答える。
「食べないよ」
「食べたらどうなるの?」
「どうもならない。死んだ生き物の血を飲むといけないって話もあるけど、別にどうもないよ。ただ不味いから気分は悪くなる、かな」
「ふうん」
頷くけれど、ちょっと混乱した。よくよく考えるといろいろと意味がわからない。シュウの身体の仕組みは、私の知っている生物、と、もっと言えば科学の知識とも合致しない。質量保存の法則とか。でも、
「そんなもんか」
と思う。理屈に合わないからと言って、目の前にあるものを否定することはできない。
「そんなもんだよ」
シュウは先生みたいな口ぶりで諭してくる。
「はあい」
素直に返事をすると、シュウは楽しそうに笑う。
「寝床はもう確保したの?」
「ううん。まだ。早く休みたかった?」
「いいや。聞いただけ」
「移動する? このへんでとる?」
「どっちでも。君の好きなほうで」
「じゃあ、このへんでとる」
「怠けものだなあ」
「シュウに言われたくない」
頬を膨らませると、シュウの小さな手がこちらに伸びる。
「その顔はやめなさい」
ぽん、と音を立てて、シュウの中指と親指が、私の頬を押しつぶした。




