長い旅(一)
もう、二年ほども旅をしている。あてのない旅だ。旅というよりも、帰る場所がないから、彷徨っているだけというほうが近い。
ホテルで文庫本を読んでいると、シュウが帰ってきた。ドアが開いた気配はしなかったが、気付くとベッドの横に立っている。
「ただいま」
うつ伏せて本を読む私の髪を指先で梳く。首筋に触れるシュウの皮膚がつめたくて、肩をすくめた。
「おかえり。早かったね」
時計を見ると、まだ三時にもなっていない。シュウの活動時間は主に夜なので、これはかなり早い帰宅だ。
「うん。外がうるさくて嫌になっちまった」
幼い外見と澄んだ高い声に似合わない言葉遣いに、つい笑ってしまう。
シュウはクローゼットを開いて、着替えだす。黒いパーカーに、黒いジーンズと、黒いスニーカー。シュウは黒が好きだ。つるりと綺麗な顔と白い肌に、黒は不吉な感じでよく似合う。普段はくだけた服装が多くてそれもまあ似合っているけれど、きちんとした恰好だと良家のおぼっちゃんという感じで、とても可愛らしい。
パーカーを脱ぐと、薄っぺらな白い上半身が露になる。ぼう、と暗がりで光っているような白い肌。あばらの影が薄く見える。ひ弱そうな身体。シュウの見た目は大体十歳前後だ。少年と呼ぶのも躊躇われる、小さな子供の姿。私は十九歳なのでまだ若いはずなのだけれど、シュウを見ているとひどく年を取った気がすることが、たまにある。
靴下を脱ぎ靴を脱ぎ、スリッパを履くと、シュウはベッドに近づいてくる。
「外、何か面白いことあった?」
いいや、とシュウは首を振った。短いまっすぐな髪がさらさらと揺れる。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
布団を捲って、私は上半身裸のシュウを中に入れてやる。冷気と一緒にもぐりこんで来たシュウは、途端に不満の声を上げる。
「ああもう。寝床がぬるいじゃないか」
「不満だったら棺おけにでも行けば?」
丸い額を指でつつく。シュウは目尻を下げて笑う。私も笑う。
「いいけどそのときは君も一緒だよ」
「それじゃまたぬるくなるよ」
「いいんだよ。多少の不愉快には耐える所存だ」
「子供が偉そうに」
「なんだよ非常食が偉そうに」
今度は額に額をぶつけてやる。すると、つめたいものがべたりと首筋に貼りついた。
「ひゃっ」
シュウの手のひらだ。
「ひどい声」
けらけらと余り上品じゃない声で笑う。
「あーもう。ふざけてないで早く寝なさい」
「まだ寝ないよ。ねえ、テレビ見る?」
聞きながら、もうリモコンに手を伸ばしている。シュウはテレビが好きだ。
「いい。私眠いもん」
正直に言うと、シュウは赤くて小さな唇を尖らせた。
「なんだよたまに早く帰ってきたらもうおねむかよ」
「人間だもん」
「ちぇ」
尖らせた口が可愛い。楽しい気持ちで私は目を瞑る。
シュウが私の髪をいじる気配がする。ときどき軽く引っ張ってくる。かまわれたがっているようなので、手を伸ばして頭を撫でてあげる。すると引っ張るのをやめて、大人しく髪をいじる。
「髪、伸びたね」
独り言のようにつぶやく。
「伸ばしたほうがいい?」
「あんまり長くしないよね」
「手入れが面倒くさいから」
シュウは呆れたような溜息をつく。
「女の子っていうのは大変だなあ」
その言い方がなんだかおかしくて、声を出して笑ってしまった。薄く目を開けると、赤い目が悪戯っぽく微笑んでいた。
「君、寝るんじゃないの?」
「寝るよ。だからシュウもいい子にして」
「じゃあおやすみのキスをしてよ」
「はいはいぼうや」
うつ伏せの上半身を持ち上げて、軽く開いた小さな唇にキスをする。つめたい、濡れた、でも柔らかい唇。軽く触れて離れようとすると、つめたい舌が私の唇をなぞるように舐めた。
「ひゃ」
驚いて身を引くと、追いかけてきた唇が、挨拶のように小さく押し付けられて、すぐに離れた。
「おやすみママ」
耳元で、シュウが小さく甘く囁いた。
シュウの唾液に濡れた唇を自分の舌で舐め取ると、血の味がした。何の血だろう。
ぼんやりと考えながら、私は枕に顔を埋める。
起きると、枕元にメモが置いてあった。
「チェックアウトして。夜になったらまた会いに行く」
ホテルのメモ帳に、ボールペンで書かれている。シュウの字は丁寧だ。
私は荷物をまとめて、一階に下りてホテルのバイキング形式の朝御飯を食べる。ビジネスホテルの、ありきたりの朝食だ。バターロールと、オレンジジュースに、オムレツみたいなものと、ベーコンを一切れ。全部妙に薄っぺらくて、油っぽい味がする。
今日はどうやって時間を潰そうかと、時計を見る。九時前。十時にはチェックアウトしなくてはいけない。財布の中を見ると、お金は結構入っていた。十万円近くある。昨日よりだいぶ増えている。シュウが手に入れたお金を勝手に入れておくのだ。
読みかけの本が一冊あるので、とりあえずどこかのカフェでそれを読んで、そのあと新しく本を買おう、と決める。読んだ本はいつも捨ててしまう。この旅では、あまりものはもたないようにしている。着替えとタオルが少しと、化粧品と、なんかちょっとしたもの。小さなボストンバッグに全部納まってしまう。いつ何があるかわからないし、ものへの執着というもの自体が、二年前からひどく希薄になってしまった。何をなくしても、別に惜しくはない。どうせものだ。
シュウ。
バターロールの欠片を口に押し込んで、泣き笑いのような気持ちになる。
今の私がなくしたくないと思っているのは、シュウだけだ。でもシュウが私のものなのかというと、多分違う。




