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夜の人々  作者: 古池ねじ
長い旅
7/24

長い旅(一)

 もう、二年ほども旅をしている。あてのない旅だ。旅というよりも、帰る場所がないから、彷徨っているだけというほうが近い。



 ホテルで文庫本を読んでいると、シュウが帰ってきた。ドアが開いた気配はしなかったが、気付くとベッドの横に立っている。


「ただいま」


 うつ伏せて本を読む私の髪を指先で梳く。首筋に触れるシュウの皮膚がつめたくて、肩をすくめた。


「おかえり。早かったね」


 時計を見ると、まだ三時にもなっていない。シュウの活動時間は主に夜なので、これはかなり早い帰宅だ。


「うん。外がうるさくて嫌になっちまった」


 幼い外見と澄んだ高い声に似合わない言葉遣いに、つい笑ってしまう。


 シュウはクローゼットを開いて、着替えだす。黒いパーカーに、黒いジーンズと、黒いスニーカー。シュウは黒が好きだ。つるりと綺麗な顔と白い肌に、黒は不吉な感じでよく似合う。普段はくだけた服装が多くてそれもまあ似合っているけれど、きちんとした恰好だと良家のおぼっちゃんという感じで、とても可愛らしい。


 パーカーを脱ぐと、薄っぺらな白い上半身が露になる。ぼう、と暗がりで光っているような白い肌。あばらの影が薄く見える。ひ弱そうな身体。シュウの見た目は大体十歳前後だ。少年と呼ぶのも躊躇われる、小さな子供の姿。私は十九歳なのでまだ若いはずなのだけれど、シュウを見ているとひどく年を取った気がすることが、たまにある。


 靴下を脱ぎ靴を脱ぎ、スリッパを履くと、シュウはベッドに近づいてくる。


「外、何か面白いことあった?」


 いいや、とシュウは首を振った。短いまっすぐな髪がさらさらと揺れる。


「入ってもいい?」


「どうぞ」


 布団を捲って、私は上半身裸のシュウを中に入れてやる。冷気と一緒にもぐりこんで来たシュウは、途端に不満の声を上げる。


「ああもう。寝床がぬるいじゃないか」


「不満だったら棺おけにでも行けば?」


 丸い額を指でつつく。シュウは目尻を下げて笑う。私も笑う。


「いいけどそのときは君も一緒だよ」


「それじゃまたぬるくなるよ」


「いいんだよ。多少の不愉快には耐える所存だ」


「子供が偉そうに」


「なんだよ非常食が偉そうに」


 今度は額に額をぶつけてやる。すると、つめたいものがべたりと首筋に貼りついた。


「ひゃっ」


 シュウの手のひらだ。


「ひどい声」


 けらけらと余り上品じゃない声で笑う。


「あーもう。ふざけてないで早く寝なさい」


「まだ寝ないよ。ねえ、テレビ見る?」


 聞きながら、もうリモコンに手を伸ばしている。シュウはテレビが好きだ。


「いい。私眠いもん」


 正直に言うと、シュウは赤くて小さな唇を尖らせた。


「なんだよたまに早く帰ってきたらもうおねむかよ」


「人間だもん」


「ちぇ」


 尖らせた口が可愛い。楽しい気持ちで私は目を瞑る。


 シュウが私の髪をいじる気配がする。ときどき軽く引っ張ってくる。かまわれたがっているようなので、手を伸ばして頭を撫でてあげる。すると引っ張るのをやめて、大人しく髪をいじる。


「髪、伸びたね」


 独り言のようにつぶやく。


「伸ばしたほうがいい?」


「あんまり長くしないよね」


「手入れが面倒くさいから」


 シュウは呆れたような溜息をつく。


「女の子っていうのは大変だなあ」


 その言い方がなんだかおかしくて、声を出して笑ってしまった。薄く目を開けると、赤い目が悪戯っぽく微笑んでいた。


「君、寝るんじゃないの?」


「寝るよ。だからシュウもいい子にして」


「じゃあおやすみのキスをしてよ」


「はいはいぼうや」


 うつ伏せの上半身を持ち上げて、軽く開いた小さな唇にキスをする。つめたい、濡れた、でも柔らかい唇。軽く触れて離れようとすると、つめたい舌が私の唇をなぞるように舐めた。


「ひゃ」


 驚いて身を引くと、追いかけてきた唇が、挨拶のように小さく押し付けられて、すぐに離れた。


「おやすみママ」


 耳元で、シュウが小さく甘く囁いた。


 シュウの唾液に濡れた唇を自分の舌で舐め取ると、血の味がした。何の血だろう。


 ぼんやりと考えながら、私は枕に顔を埋める。



 起きると、枕元にメモが置いてあった。


「チェックアウトして。夜になったらまた会いに行く」


 ホテルのメモ帳に、ボールペンで書かれている。シュウの字は丁寧だ。


 私は荷物をまとめて、一階に下りてホテルのバイキング形式の朝御飯を食べる。ビジネスホテルの、ありきたりの朝食だ。バターロールと、オレンジジュースに、オムレツみたいなものと、ベーコンを一切れ。全部妙に薄っぺらくて、油っぽい味がする。


 今日はどうやって時間を潰そうかと、時計を見る。九時前。十時にはチェックアウトしなくてはいけない。財布の中を見ると、お金は結構入っていた。十万円近くある。昨日よりだいぶ増えている。シュウが手に入れたお金を勝手に入れておくのだ。


 読みかけの本が一冊あるので、とりあえずどこかのカフェでそれを読んで、そのあと新しく本を買おう、と決める。読んだ本はいつも捨ててしまう。この旅では、あまりものはもたないようにしている。着替えとタオルが少しと、化粧品と、なんかちょっとしたもの。小さなボストンバッグに全部納まってしまう。いつ何があるかわからないし、ものへの執着というもの自体が、二年前からひどく希薄になってしまった。何をなくしても、別に惜しくはない。どうせものだ。


 シュウ。


 バターロールの欠片を口に押し込んで、泣き笑いのような気持ちになる。


 今の私がなくしたくないと思っているのは、シュウだけだ。でもシュウが私のものなのかというと、多分違う。


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