約束(六)
来ないで、来ないで、と。
傷が痛むたびに私は頭の中で唱えた。でも、それが叶うとは思っていなかった。来ないで、と願いながら、私は彼が来るのを待っていた。彼に会いたいからではない。いずれ果たさなくてはならない罰なら、早く来てほしかった。楽になりたかったのだ。
そして今、傷が痛い。
傷が痛み出したのは、電車の中だった。帰宅ラッシュの満員電車の中で、急にあの痛みがやってきた。脂汗をかき、ぬるい人の壁に挟まれながら泣きそうになった。ようやく最寄り駅でホームに吐き出されても、痛みはまだ続いていた。ずくりずくりと心臓の音にあわせて、何かを呼ぶように。周りの人々が、みょうにゆっくり歩いているように見えた。ホームの電灯が眩しい。全部消えてしまえばいいのに。口の中が乾く。傷が痛い。
手のひらをきつく握り、夜の駅をどうにか抜け、何故だか私は人気のないほうへと歩いて行った。ぱらぱらと小雨が降って、傘も差さない私の肌をひやしていった。
今かもしれない。
そんな予感がした。彼が来るのは今かもしれない。根拠はない。けれど彼に関していうのなら、予感があること自体が根拠と呼んでいい気がした。私と彼は繋がっているのだ。この傷で。この痛みで。
雨は徐々に強くなる。のろのろと足を引き摺り、歩き続ける。駅前を抜け、人気のないほうへ。
辿り着いたのは、自転車置き場だった。小さくて、駅から離れているので、ほとんど人がいない。並んだ自転車は、全部壊れかけているように見える。湿ったアスファルトに、髪から落ちる水滴が模様を作る。
傷は、まだ痛む。
「痛い……」
泣きたい気持ちで呟いた。
すると、
「ごめんね」
と、声がした。後ろから。力がぬけて、右手でかろうじて持っていた鞄もアスファルトに落ちた。何か冷たいものが左手に触れて、その途端、痛みが消えた。
私は振り向かなかった。誰がいるのかはわかっていた。雨が、アスファルトを叩く音がする。濡れた身体が冷えていく。寒い。震えてしまう。
「遅くなったね」
足音なんか聞こえなかったのに、今度は声は前から聞こえた。自分のつま先を見つめたまま私は、前を向く勇気がもてない。ひどく惨めな気持ちだった。
「やっと会えた。僕のお姫様」
安堵と喜びに溢れた、記憶にあるのとまったく同じ声。髪から水滴が落ちる。出会ったときにも雨が降っていた。彼の髪から、薔薇に水滴が零れていた。思い出すとお腹がしくしくした。私は幼かった。
「会いたかった」
俯いた顔を両手で包み込まれた。力が入っている様子なんかないのに、私の顔は自然と上を向いてしまう。
「ああ。君だ。会いたかった」
彼だった。私はだらしなく口を開いたまま、ぽかんと見蕩れた。
彼がいた。白い石膏の肌と、黒い巻き毛。黒い眉と睫。赤い瞳。赤い唇。彫像みたいに綺麗な鼻。削げた頬。綺麗な綺麗な私のおにいちゃん。何一つ変わらない。
何一つ。
顔を動かすこともできない私は、目を閉じた。彼を見ているのが、つらかった。
「どうしたの?」
私の様子がおかしいと気付いたのか、彼が問いかける。
「どう、って……」
自分の耳に届いた声が記憶とあまりにも違って、消えてしまいたくなった。
「……来てほしくなかったの」
同時に、彼を傷つけたくなった。何も知らずに迎えに来たその無邪気さに腹が立った。
「来てほしくなかったの」
目を開けて、繰り返した。彼は戸惑うように眉を寄せた。
「来てほしく、なかった?」
信じられないといった様子で繰り返す。
「ええ」
はっきりと答えた。彼はまだ何もわからないようだった。
ぐつ、と内臓が沸き立つように腹が立った。もうどうにでもなれ、と思った。彼を傷つけたかった。私は多分、ここで殺されてしまうのだろう、と心の静かなところで考えた。私が意に沿わなければ、きっと彼は躊躇わないだろう。それでも随分長いこと苦しめられたのだから、最後ぐらい一矢報いてやりたかった。
「来ないで、来ないで、って、傷が痛くなる度に思ってた」
「ああ、痛かったんだね。ごめんね。でも、血をもらわないとつながりがなくなってしまうから。ごめんね、本当に」
彼は私の手を取り、口付けようとする。見当違いのことで気遣われるのが嫌で、私は身を捩った。あっけなく彼の手から抜け出した私は、距離をとるとまっすぐにその赤い目をにらみつけた。彼はただ怪訝に私を眺めている。
何もわかっていないのだ。この人は。自分が望まれていないことなんて想像もしていなかった。
理不尽だと思った。何もかもが理不尽だった。彼と出会ったことも。彼と別れたことも。こうしてまた出会ったことも全部。全部。全部、間違っていた。
「もう、遅いの」
傷つけるつもりが、ひどく心細い声しか出なかった。
「遅い?」
「ええ」
私は頷いた。
「もう、あのときとは同じじゃないの」
自分で言わなくてはいけないのだと思うと、それだけで心がくじけそうだった。それでも続けた。連れて行かれるわけにはいかなかった。
「あなたとは行けない」
「何故?」
彼の声は硬かった。赤い目が、光を増した。喉を押さえられているような圧迫感。小さく息を吐く。
「あのときに、連れて行ってくれなかったから」
掠れた声でどうにか答えた。それが全てだった。わかってほしかった。
「今の生活が、そんなに捨てがたい?」
やっぱりだ。わかっていない。私はほとんど叫びだしそうな怒りに襲われながら、首を振った。
私は彼を待っていた。十二歳のときから、ずっと。最初は、彼が好きだったから。他の好きなもの全部を引き換えにしても、彼を選ぶことができた。
でも、今は違う。
もう一度弱く首を振った。今は違う。違うのだ。
彼を見る。硬い目で私を見ている。幼い頃には決してしなかった目だ。それが私の拒絶のせいなのか、私自身、二十四歳の女になった私のせいなのかは、わからない。
「あなたについていったら、今のままで、生きるんでしょう? ずっと、この姿のままで」
「ああ」
「そんなの耐えられない」
頬が、冷たい手のひらに覆われた。今度は乱暴に上を向かされる。赤い目が、ぎらぎらと、油を流したように光っていた。
「そんな理由で?」
これ以上の会話を望んでいないと示している声。従うわけにはいかなくて彼を睨んだけれど、縋るような視線になってしまうのが、自分でもわかった。
「あなたが好きだったの」
もう気はくじけていた。それでも、行けない、ということだけは確かだった。見逃してほしかった。
「今は?」
巻き毛が、私の頬にかかる。頬に、指が食い込んだ。痛い。
「わからない」
正直に答えた。彼の表情は変わらない。ただ、頬に掛かる力が強くなる。痛い。拷問を受ける罪人の気分だった。もう、一矢報いるとか、傷つけたいとか、そういう気持ちはどこにもなかった。私にはどんな権利もないのだ。ただ、許しを乞うだけだ。
「子供の、頃は……」
懺悔を始めると、頬に掛かる力が緩んだ。涙が零れそうになった。
「あなたが、好きだった。全部、他のもの全部捨ててもあなたのところに、行きたかった。でも、つれていってくれなかった」
「連れて行くには、君は子供過ぎた」
小さく私は首を振った。目を閉じると、涙が彼の手に流れていった。
「でももう私、歳を取りすぎた」
そう、結局、それだけだった。
「何を言っているの?」
彼の息が私の鼻にぶつかる。こんな近くで顔を見られたくなかった。化粧で隠し切れない隈や、くすんだ唇に気付かれたくなかった。つまらない毎日の繰り返しにすっかり磨耗した女だと。
「あなたを待っていたの。ずっと、ずっと待ってた。あなたがいつか迎えに来るって、それだけを信じて、ずっと待っていたの」
「それが、今は違うって?」
頷いた。
「待ってる間に、私、腐ってしまったの。だから、もう行けない。あなたにあげたいものを、もう、何も持っていないの」
私はもう、彼への恋心さえ持っているのかわからなかった。ただの二十四歳の、つまらない女がいるだけだった。十二歳のときの記憶を抱いて、それだけを大切にして、腐ってしまった女がいるだけだ。彼を愛して全てを差し出した、十二歳の私の残りかす。
そんなものを、彼に渡したくなかった。庭に咲いた大輪の赤薔薇と白薔薇。幸福だったあの時間。美しかった彼と、可愛かった少女の私。すべて豪奢な記憶として閉じ込めておきたかった。
こんな残りかすのまま、ずっと彼と一緒にいるぐらいなら、このまま死んだほうがましだ。
「だから?」
冷たい声に、全身の皮膚が粟立った。
あ、と思ったときには、私はアスファルトに押し倒され、上から肩を押さえられていた。埃くさい。腰と背中と後頭部の硬い痛みに、顔が歪む。
「言いたいことはそれだけ? 僕の花嫁」
嬲るように彼の指が、私のシャツのボタンに触れた。捕食される恐怖と、意志を踏みにじられる恐怖がない交ぜになって、ただ、身体が震える。悲鳴も出ない。
「どのみち君の意見なんか関係ないよ。僕はほしいものをもらっていく。それだけだ」
一つ、ボタンが外れた。露になった首筋から胸元に、指が伝う。背筋が震えた。
「やめて」
「嫌だよ。約束だ。僕は自分のものをもらうだけだ」
「やめて」
しつこく繰り返すと、指が止まった。私の顔を見下ろして、ふっと微笑む。
「君は、さっきから自分のことばかりだ」
呆れた口ぶり。
「そうね」
その通りなのと、彼が笑ったことで何かが緩んで、私も笑った。
「でも、私はもうあなたとは行けないの。もうあなたの女の子じゃないの」
「そうだね。君はもう女の子じゃない」
彼は無造作に私の唇に唇をつけた。咄嗟のことで何もわからず、ただ冷たい感触だけが残った。
口付けは、これが初めてだった。
その事実が意外だった。子供ではないというのは、こういうことなのだろうか。
「待っていたのは君だけじゃないんだ。僕だって、ずっと待っていた」
額に掛かった前髪を払ってくれる。昔よりも少し丁重な手つきで。
「僕がほしいのは、君だよ。たとえ年を取りすぎてても、腐っていても、それならそれでいいんだ」
彼の目は揺らいでいた。昔、十一歳の私に答えを求めたときと同じに。怯えているのだ。
あのときは、わからなかった。今ならわかる。
「僕だって」
どこかが痛んだみたいに、彼の顔が歪んだ。空気の塊を無理に吐き出すようにして、話し出す。
「僕だって、年を取ってる。君よりもずっとだ。それから、腐り切ってる。黴の生えそうな場所にうずくまって夜が来るのを待って、夜には鼠を取って、その生き血を啜ってるんだ。毎日そんなのの繰り返しだよ。とっくに腹の中まで畜生だ。そんな中でただ、君が大人になるのを待ってたんだ」
彼の頭が、私の肩に落ちた。私はおそるおそる、その黒い巻き毛に触れた。そっと、その頭を撫でる。頭蓋骨の丸さと冷え切った髪の毛。指先から、愛しい気持ちと可哀想な気持ちが沸いて、その頭を両手で抱いた。
私の首筋で、彼が尋ねる。息が肌を湿らせる。
「君を、くれよ。この腐りきった男に、腐った女をくれよ」
一緒に、行きたいかい? 分厚いコートを着て、行ってしまうと言った彼が今、そんなふうに言う。
あのときは、質問だった。でも、今度は哀願だ。そして、私はこれがほしかったのだ、と悟った。十二年間、これが足りなかったのだ。
彼が、好きだ。
ぱちん、と何かがはじけて、そう思った。彼が好きだ。この男が、美しくて、優しくて、それから身勝手で、孤独で、臆病な男が。昔と同じように。そして、昔とは違うやり方で。
身体の中にあった空間に何かが満ちて、私は小さく頷いた。顎を僅かに動かしただけだけれど、彼には伝わったようだった。
彼の牙が、私の首筋に触れた。
辺りは静かだった。アスファルトにぶつかる雨の音だけが聞こえた。埃の匂い。背中は硬いアスファルト。そこここに点る、黄色い電灯。羽虫が群がる影。
つまらない光景だ。これが、私の死に場所で、私たちの結びつく場所なのだ。でも、別にそれでいい。
私は目を閉じた。口元に笑みが浮かんだ。冷たい彼の身体。尖った牙が、薄い皮膚に触れている。
そうだ。これでいい。私がいて、彼がいる。それだけだ。
彼の牙に、力が入る。皮膚が破れる。痛みが私を支配する。
焼かれるような痛みと恐怖に、私は叫んだ。
その叫びが、私の人間としての最後の言葉であり、彼への誓いの言葉だった。
「約束」はこれで終わりです。
ありがとうございました。




