約束(五)
結論から言うと、私は死ななかった。
気がつくと、ぬるいお湯の中に、私の体が沈んでいた。
死んだら、一度体を洗うのか、と一瞬思い、その後自分の家のお風呂だと気付いた。水色の、見慣れた浴槽。
「あれ?」
声が漏れた。でも、のぼせかけているせいで舌が上手く回らない。
「あー」
確認のためにもう一度声を出すと、ひゅん、と頭の中で靄のように広がっていた記憶が固まった。
あの後、私は彼の家を出て、家へと帰り、普通にご飯を食べ、家族と普通に話をした。夕飯のメニューも観ていたテレビの内容も思い出せた。自分がしていたことなのに、他人の行動を見ているようだった。多分、私の行動じゃなかったのだろう。仕組みはよく分からないし知りたいとも特に思わないけれど、あれは彼がやらせたことなのだろう。
一度浴槽から上ると、何かがどろりと太ももを伝った。
血だった。お腹がじんわりといたかった。
なんだか無性に悲しくなって、タイルの上にへたり込み、血を流しながら、私は泣いた。
指の傷に気付いたのは、次の日になってからだった。左手の薬指の付け根近くに二箇所薄赤い丸い傷が付いたいた。言わなければ人に気付かれるような場所でもない。痛みは特になかったけれど、触るとそこだけ熱かった。ずくずくと心臓から送り出される血が触れた場所から伝わる。
約束のしるしなんだ、と思った。それを考えると怖いような待ち遠しいような気がして、心臓がきゅっと縮んだ。彼がくれたもの。私は唇を傷についた。唇も指も熱かった。肉が盛り上がっている感触が楽しくて、唇と舌で弄んだ。
彼がくれたものは、思い出と、その傷だけだった。
いないことはわかっていながら、確認のために彼の家に行くと、そこはただの廃屋だった。塀に絡んだ蔦は茶色く枯れ、庭には細長い雑草がはびこり、薔薇など見当たらない。あれだけ見事に咲いていたのに。
枯れた庭からに背を向けて、以来そこに近寄ることもなかった。
しばらくすると、そこから二つ、白骨死体が見つかったという話を聞いた。五年ほど前までその家に住んでいた老夫婦のものだったらしいというところまではわかったけれど、それ以外は何の進展もなかった。
「前からよく旅行にしたり、ご近所さんとも付き合いがなかったけど、だあれも気付かなかったものかしらねえ」
母はそんなふうに首をひねっていた。近所の人たちもみんな、同じことを不思議に思っていただろう。けれど自分たちの彼らへの無関心が気まずかったのだろう。その家のことが話題に上ることはほとんどなく、すぐに忘れられた。
私だけが、本当のことを知っていた。本当のことの全てではないけれど、他の誰もが知らない、あの家の秘密を。
秘密のにおいは、私をぞくぞくさせた。人目につかないように左手を握り締め、熱い傷を指先でなぞった。
彼はいつか迎えに来る。傷の熱が、私にそれを教えてくれているようだった。私は疑わなかった。今だって疑っていない。彼はいつか迎えに来る。
ほとんどそれだけを胸に、私は成長していった。すくすくと、私の手足は伸び、胴体は丸みを帯びた。いつの日にか、私は少女という称号を過去に置き去りにして、女になっていた。黒い長い重い髪と、白いみっちりと湿った肌を持ち、いつも日差しに目を細める、一人の、つまらない女に。
言い訳をさせてほしい。
私は彼を待っていたのだ。大好きだったから。ただただ、彼を待っていた。大切に左手の傷と交わした約束をあたためて、一人で誰にも心を開かず、彼を待っていたのだ。私の愛しい人を。いつか迎えに来て、今いる場所から私を攫い、永遠に暗い場所に連れて行ってしまう人を。
だからその間誰とも恋をせず、人の恋の話にも興味を持てなかった。私にとっての恋とはただ彼の赤い目とつめたい肌と、お腹がしくしくする感触だけだった。他のものはいらなかった。恋だけじゃない。待ち人を持つ私にとって、今の自分の生活は全部嘘だった。友人も、勉強も、家族も、趣味も、何もかも全部、いずれは捨て去ってしまうはずのものだった。
それでも私はごく当たり前に大学に行き、就職活動をして、会社員になった。つまらない仕事をする、つまらない会社員だ。
昨日も起きたからという理由で六時半に起き、時計を横目でにらみながら身支度をし、意を決して家を出て、息を潜めながら人の壁と匂いに包まれる電車に耐え、礼儀だからという理由で笑って挨拶をして、お金をもらっているから仕事をする。
私の仕事はデータ入力だ。眠気を目薬と気力で追い払い、時折電話を受けながら、エクセルの枠を埋めていく。昼にはコンビニで買ったお弁当を食べ、文庫本を読み、午後の時間をやり過ごして定時になると家に帰る。友人はいない。ほしくない。何もほしくない。私にとって、時間はやり過ごすべきものだ。いつか来るそのときまで。
つまらなくて、不快で、陳腐だ。それが私の生活だ。
そしてこの頃になって、傷が痛み出した。初めて痛みを感じたのは、会社でだった。キーボードでくじいたのかと痛む場所に触れると、ずくずくと乱暴に痛みが増した。何かを呼ぶように。知らせるように。
きっと迎えに行く。
その言葉が頭に木霊した。脂汗をかき、隠すように薬指を握り、私は願った。
来ないで。
咄嗟に思ったその言葉に、愕然とした。でも、真実だった。私は彼に与える言葉を、もうそれだけしか持っていなかった。




