約束(四)
あれだけ傍にいたのに、別れはあっけなかった。出会いもあっけなかったように。
私は十二歳になっていた。ランドセルを下ろして、紺と白の制服を着るようになったばかりだった。ある日彼の家に行くと、彼は黒い服を着ていた。真っ黒い、重たそうなコート。遅い春には似合わない服装だった。
「やあ」
軽い、投げやりな声だった。私はどんな顔をしていいのか分からなかった。予感があった。お腹の奥が疼いた。しくしくと、ずきずきと、かき混ぜられるみたいに。
「今日も君は可愛いね。僕のお姫様」
入り口に立ちすくむ私に近寄り、頬を撫でた。つめたい大きな手。私の温度が移ってぬるくなるんじゃなくって、私を冷やしてしまうつめたさ。夢みたい、と私はその優しい手に沿うよう、首を傾けた。体が震えた。彼との時間はいつだって、夢みたいだった。
「行っちゃうの?」
私は震えながら尋ねた。秘密を抱えておけるほどには大人になっていなかった。
「ああ」
彼は答えた。
私は答えなかった。目を閉じると、涙が頬を伝った。彼が好きだった。離れたくなかった。どうしても、離れたくなかった。
夢には終わりがある。そのぐらいのことがわかるぐらいには、私も大人になっていた。でも、わかることと受け入れることは全然違う。そのとき初めて知った。
「いっしょに、いっちゃだめ?」
精一杯に甘い可愛い声を出して、私は尋ねた。尋ねた瞬間に、私の可愛さ、私の彼に対するたった一つの武器が、なんて弱くて滑稽なものなんだろうと思い知らされて、余計に泣けた。私が何を言っても、もう変わらないのだ。可愛がってくれても、彼が決めたことを覆す力なんて、私にはない。何もない。
「……一緒に行きたい?」
はっとして、私は目を開けた。彼の赤い目が、私の目をまっすぐに見据えていた。
「一緒に、行きたいかい?」
「行きたい」
一瞬だって迷ってはいられない。即座に答えた。今。今間違えてはいけない。今躊躇すれば、それだけで彼を失うのだ。それがはっきりとわかった。一瞬だって、迷ってはいけない。
彼は微笑んだ。そして、少し膝を折って、私と同じ目線になった。
「なんにも持っていけないんだよ。君が好きなたくさんのものの、一つも持っていけないんだよ。お父さんもお母さんも、友達も、おもちゃや服や、他にもいっぱいあるいろいろも。今まで君の周りにあったもの、全部持っていけないんだよ。それでも?」
一つ一つ言い聞かすようにしながら、赤い目が、揺れていた。それは私が泣いていたせいではないと思う。多分、今から思えば、彼は怯えていたのだ。とても怯えていた。
彼は、私が好きだったのだろう。あのとき私が思っていたよりも、ずっと。
今なら、それがわかる。わかるからもう、私は彼には会いたくないのだ。
「それでもいい」
幼い私、まだぎりぎり幼いといえる私はまっすぐに答えた。迷わなかった。他のものは全部問題じゃなかった。どんなに楽しいものも好きなものも捨てられる。全部、全部、惜しくなかった。彼だけが大切だった。
「全部いらない。一緒に行く」
そう言ったとき、気持ちの上ではもう全部捨てていた。
「そう」
彼は目を細めて、微笑みに似た表情を作った。赤い目が、薄暗がりの中、ぼうっと光っていた。ぎゅうっと、お腹の中に手を突っ込まれたような、痛み。脚に汗がぬるくわいて、すぐに冷えていった。私は震えながら、でも彼から目を逸らさなかった。負けられなかった。
「いい子だ」
彼は手を伸ばし、体の横できつく拳を作っていた私の左手を握り、顔の前へと持ってきた。
「でも、今はだめだ。つれてはいけない」
失望。私は俯いて、嗚咽を漏らした。彼は両手で私の左手を、そろそろと撫でた。力が緩んで、拳が広がる。
「でも約束をしよう。いつか、必ず迎えに行くよ。君が大人になったら」
「ほんとうに?」
泣きながら尋ねた。彼は手を握ったまま、頷いた。
「ああ。必ず。きっと迎えに行く」
もう言葉にならなかった。ただ頷いた。何回も何回も。頷けば頷くほど、約束が重くなる気がしていた。
「だからね、ごめん、少し、我慢をして」
我慢というのが、彼に会えない時間のことかと思った私は、頷いた。
そして、次の瞬間、絶叫した。
火の中に手を入れられたら、きっとこんな痛みだろう、と麻痺した頭のどこかで考えた。叫びながら、彼が私の左手に噛み付いているのが見えた。赤い、赤い目。闇の中で光っている。瞬きをしない、人間のものではない、目。そして、人間ではない、ということは、つまり、私とは違う、と言うことなのだった。
犬よりもう少し大きいもの。
意味が、わかった。頭で理解したのではない。焼かれるような痛み、食われている、という感触で、理解した。
でも、私は手を引かなかった。叫びながら、これでいいと、思っていた。お腹の奥が熱くて、熱くて、たまらなかった。
全部あげたい。あなたに、私の全部を。あなたに。ただ、あなたに。
赤い目に、私は微笑んだ。実際に微笑めたかどうかはわからない。
彼が、微笑んだ。それも、本当にそうだったのかは、わからない。




