約束(三)
その日から、学校終わりや日曜の昼、友達と遊ぶと言って、彼の家へと走った。
彼のことは誰にも話さなかった。家族にも、友達にも。他のどんな秘密とも違って、誰かに言ってしまいたい衝動さえも起きなかった。彼と一緒にいる時間は、夢みたいなものだった。起きているときとは全然違う時間の流れにある。
彼の家は暗かった。いつも雨戸を閉じて日を入れず、小さな灯りだけがぽつんぽつんと点いていた。いつでも黴や埃の匂いがじっとりと蟠っていた。こんな家では暮らしたくないな、と思いつつ、それでも私はそこが好きだった。住居としては不適切このうえなかったけれど、隠れ家として、あるいは秘密の遊び場としてなら、それ以上の場所は考えられなかった。
彼の言葉通り、その家にはいつでも入ることができた。蝶番が錆びかけた鉄の門にも玄関の大きな木の扉にも鍵は掛かっていなかった。私は音を立てずにそれらを開け、隙間に滑り込むように家へと入った。すると、いつの間にか彼がすぐそばにいる。いつの間にか。
「いらっしゃい。ちいさいお嬢さん」
振り向くと、彼はそこに立っている。私は微笑む。彼も微笑み、冷たい指で私の頬を軽くなぞる。私は笑い声を立てる。その家の中では、私はいつもみたいには笑わない。ささやかに喉を転がして、子供としてじゃなく、女の子として笑う。彼はそんな私に目を細める。可愛くてならない。その目はそんなふうに告げている。
何かの仕草をすることで、自分の魅力が相手に作用する。男女の駆け引きの原理を、私は彼から学んだ。子供らしく拙い単純なものではあったけれど、彼といるとき、私は可愛い女の子に見えるよう演出をした。単純に彼が好きだったからでもあるけれど、それ以上に何故だか彼が私を可愛い、と思っていることが、はっきり信じられたからだ。両親や親戚や他の大人から与えられる「可愛い」という言葉とは違う、この人の心に本当に自分が訴えかけている、という確信。
彼の家で、私と彼は何をしていたのか。何をしていたのだろう? 具体的に思い出すことはできない。私たちはただ一緒にいて、他愛もない話をして、他愛もなく戯れていただけに過ぎない。何をしていたのかは重要ではなく、ただ二人でいることだけが大切だった。
柔らかい靄に包まれた、曖昧で幸福な時間。私は彼の肩にもたれ、彼は私の髪を弄ぶ。私も彼の髪を撫でる。彼は笑い、私を膝の上に抱き上げてくれる。ひんやりとした胸に頬をつけて、私は目を閉じる。瞼の裏に闇が広がって、その中の自分がひどくむき出しで無防備な気がして、お腹の奥がしくしくする。
私は彼の家に行くことを隠していたけれど、その杜撰な工作が何故露見しなかったのか、今となってみると奇妙だ。それほど頻繁に会いに行く「友達」が誰なのか尋ねられたこともなかったし、彼の家、あれだけ異質な薔薇の家が誰かの話題に上ることもなかった。
赤薔薇と白薔薇は、彼が自分で植えたのだという。まぜこぜの、ちぐはぐの二種類の薔薇。どの季節でも変わらず咲き誇る奇妙な薔薇。
雨の日だけ、彼は黒く重いカーテンを引いて、庭を見る。窓を開け、椅子を庭に向けておくと、彼はそこに腰掛ける。私はその膝に座る。雨に濡れた薔薇は色を沈ませて、ほとんど黒と白のように見える。
「薔薇が好きなの?」
「好きだよ」
「私も好き」
彼は咎めるように私の額を指で突いた。
「好きじゃないって言ってただろう? 嘘つきのお嬢さん」
私は唇を尖らせ、彼をにらむ。
「今は好きだもん。嘘じゃないもん」
彼は目を細める。
「そうか。ごめんね」
「嘘じゃないもん」
「ごめんね」
彼は私の頭を撫でる。彼のシャツに顔を埋めて、私は嘘じゃないもん、と繰り返す。
彼は謝ってくれたけれど、厳密に言えば、私は嘘をついたのかもしれなかった。薔薇が好きなわけではなかった。多分。私が好きだったのは、彼の庭の薔薇のちぐはぐな取り合わせであり、それを植えようと思った彼だった。
べたべたとくっついて、甘いちいさなお菓子に似た意味のない言葉をやり取りしているうちに、私も少しずつ成長していった。初めて会ったとき、八歳だった。日に日に背は伸び、少しずつ、自分の身体の輪郭を発見していくように、当たり前のように通うこの家、そして彼のことを、発見していった。
発見。それはおかしな言葉かもしれない。もともとそこにあるものなのだから。けれど夢の中にいるとき、突然自分が何をしているのか、どこにいるのかを理解するように、ただそこにいた私は、物事を突然理解した。その感覚は、発見という言葉を使わなければ表すことができない。
私は突然彼が大人の男の人だということを発見した。それから、彼の目が赤いこと。それが普通の人間にはありえないということを。
「お兄ちゃんって、人間なの?」
白くてひやりとした頬に手のひらを添えて、赤く光る目を覗き込んで、突然私は尋ねた。私は十一歳になっていた。まだ彼の膝に座っていたけれど、自分の体重を気にするようにはなっていた。
「違うよ」
ごく簡単に、彼は答えた。余りに簡単に言うので、私は驚くことができなかった。
「じゃあ何?」
「なんだろう」
赤い唇で彼は言う。歌うみたいに。そこで、急に私は怖くなった。この人は誰だろう? どうして私はこの人とこんなにくっついているんだろう? 誰かもわからないのに。
怖くて、私は彼に抱きついた。怖いのが彼で、頼るのも彼だった。冷たい硬い体。お腹の奥が、しくしくして、ほとんど痛いぐらいだった。彼の指が、私の背中を撫でる。背骨の形をなぞるように、そっと。肩が震えた。彼が笑う。軽い、楽しげな声。何か寂しくて、私はますます彼にしがみつく。彼の肩をきつく持って、二人の体に隙間を作らないようにする。
「僕がこわい?」
くるくると私の背中に指を滑らせながら、彼が尋ねる。
「こわい」
はっきりと私は答えた。怖かった。そして、守ってほしかった。おかしなことだ。幼い私にもおかしいことはわかっていたけれど、そうするほかなかった。二人でいるとき、私の中には彼以外の誰も存在しなかった。彼だけだった。
「僕が好き?」
どこか投げやりに、彼が尋ねる。
「好き」
殴りつけるように答えた。彼の指が止まる。
「好き」
もう一度、致命傷を与えようとして、私は言う。彼の体から力が抜ける。私の肩に彼の頭が崩れ落ちる。少し遅れて、冷たい長い腕が、私の背中にしっかり回る。
「僕のお姫様」
掠れた小さい声。
「僕のちいさいお姫様。僕の喜び」
私に言っているようではなかった。彼自身に、あるいは、もっと別の何かに告げているような。彼の
顔が私の肩から離れ、私たちは見つめあう。赤い瞳。彼だけが持つ、傷口に似た不吉な瞳。彼は私の頬を両手で包む。大切な壊れ物を扱うような手つきで。
「君が好きだ」
ほとんど聞き取れないほどの声だった。それまで見たことのない何かで、彼の目も声も揺れていた。その揺れの正体は、十一歳の私にはまだわからなかった。けれど何かを求められていることはわかった。私は彼の削げた頬を両手で包んだ。彼の顔は、手のひらで包むと見ているよりもずっと小さかった。
「私も」
彼は私の目を覗き込み、もう一度、と小さな声で言った。
「あなたが好き」
あなた、という言葉を、私はそのとき発見した。あなた、という言葉でしか表せない二人の距離。
もう一度。
彼は言う。彼の目も声もまだ揺れている。彼自身にも制御できない振動。
「あなたが好き」
私は繰り返す。何度でも言ってあげたかった。求められているものを全て差し出してあげたかった。それが私の喜びに繋がらなくても、彼がほしいのであれば、持って行ってかまわないのだと思った。問題は私がどうしたいかではなく、彼がどうしたいかということだけだ。
彼は目を閉じる。彼の濃い長い睫はくるりと上を向いていた。両手で私の頬をくるんだまま、こつりと彼は額を私の額につけた。そして、
ありがとう。
と言った。私は閉じて、ああ今触れ合っているところがもう離れなくなればいいのに、と思っていた。
その日から、私たちは恋人同士になった。私はいつも彼の膝の上にいた。背中を彼の胸につけて、お腹の前で彼の手が組まれている。
「お腹の奥が、変な感じ」
「変な感じ? 痛い?」
掠めるように彼の指が私のお腹をするする撫でる。しくしくした。あんまりしくしくするので、泣きたくなるぐらいだった。私は首を振って、やめて、と言う。彼はやめてくれる。
「悪い子だね」
掠れた声で彼が言う。私は彼の胸の中でいっそう小さく身を縮める。彼は笑って、私の髪をかきあげてくれる。髪の中を滑るつめたい手。気持ちがいい。
「悪くて、可愛い子だ」
彼の手のひらに頭を預けるように、私は首を傾げる。可愛い、でしょう? 口に出さずにそう告げる。可愛いでしょう? もっと、もっと可愛がって。もっと。
欲深い私を、彼は甘やかした。どの瞬間でも彼の視線は甘く優しかったし、どの瞬間でも私たちの体は触れ合っていた。彼にとって、私の皮膚に包まれている全ての部分が可愛いのだ、と思うと、甘くぬるい湯に溺れるようで、力が抜けた。
彼は私に色々なことを教えてくれるようになった。私が来るまではずっと眠っていること、夜には狩りをすること。
「何を取るの?」
「ねずみかな。多いのは。あとヌートリアとか、野良犬とか」
「ぬーとりあ?」
「ヌートリア」
「って何?」
「大きいねずみみたいなものかな。溝にいる」
「美味しいの? それ」
「おいしかないよ。でも、食べないと死んでしまうから」
「おいしいもの食べればいいのに」
大人は好きなものを食べられると思っていた。見上げると、彼は私を覗き込んで微笑んだ。赤く濡れた唇が、下からよく見えた。肉の厚い下唇。
「たまには食べるよ」
「何食べるの?」
たっぷりと笑みを含んだ声で、彼は応えた。
「犬よりもう少し大きいもの」
犬よりもう少し大きいもの。
「ふうん」
わからないけれど相槌を打つと、彼はくすくす笑って頭を撫でてくれた。
「大人になったら、私、好きなものだけ食べたいな」
「何が好きなの?」
「チョコレートと、わらびもちと、なすのグラタンと、お豆腐と、えっと、うなぎ」
他にも色々あった。嫌いなものも多かったけれど、好きなものも多い子供だったのだ。
「そう」
彼の声はどこか上の空だった。気に入らないことでも言ったのかと私は口を噤み、ただ彼の胸にもたれていた。彼の指は単調なぐらいのリズムで私の髪を滑り、私は眠気にも似た陶酔に落ちていった。カーテンとカーテンの隙間の光が、ゆっくりと床を移動するのさえ見えた。きらきらと埃が舞う金色の筋。
「そろそろお帰り」
日が暮れる頃になると、彼は私の髪を耳にかけてくれながら、そう言った。帰る時間を決めるのは彼だった。冷たい指が薄い皮膚に触れるのを肩をすくめて耐えて、私は従順に頷いた。
彼の家を出ると、いつも急にお腹がすいた。別に彼の家を出たからお腹がすくのではなくて、それまで空腹を忘れていただけのことなのだろう。私は咲き誇る庭の薔薇に目を投げて、自分の家へと帰った。今日の夕食や、テレビを楽しみに、それから算数の難しいところを父に教えてもらおうと考えながら。会わない時間、彼のことを思い出すことは、ほとんどなかった。




