幕間
久しぶりに歳下の友人に呼ばれたので、土産を持って訪れた。
最初の死以来旅を続けている彼と違い、友人は一つの場所にある程度長く住むのが好きなようだった。新しい棲家は、見捨てられて長い時間が経った商業施設だった。灯りの一つさえない。外気を吸い込んで冷え切ったコンクリートは鼠さえ寄せ付けないのか、中はほとんど無音だった。寒さはともかく人の気配がまったくないのが、彼からすれば気に入らなかった。彼の死んだ肌はいつでも生きた街のざわめきに浸りたがった。そのために旅を続けている。
友人はカウンターの残骸に座っていた。長い脚がだらりと垂れている。黒いズボンにはしっかりと折り目がついているのを彼は確認し、相変わらずだと笑みを漏らした。
「やあ。元気かい」
声をかけると、友人は彼を見て微笑んだ。石膏の肌の中、生命の名残めいて赤い唇がほころんだ。
「元気だけど、少し弱った。君は?」
「元気じゃない。失恋した」
驚く友人に、土産を投げる。重たく床に跳ね返り、友人の足元に横たわった。二十歳ほどの、体格のいい男だ。意識はないが、熱い血はたっぷり皮膚の下に流れている。
「こんなんでよかったのかい?」
「ありがとう!」
友人の言葉を合図にしたように、カウンターから何かが飛び出してきた。髪の長い女のようだ。男に飛び掛り、日に焼けた首筋に噛み付く。噛み切りそうな勢いだ。牙で穴を開けるのではなく引きちぎるようにして傷を作ると、指まで突っ込んで無理矢理に血を啜る。どこかをいじった反射だろうか。意識がないはずの男は白目を剥き、よだれをたらして虫の羽音に似た声で呻いていた。
「汚いなあ」
彼は呆れを通り越した感動に似た気分で呟いた。ここまで汚い食事をする同類は初めて見た。
「ごめん。どうしても行儀を覚えてくれなくて」
「時期を間違えたんだろ」
「多分。もうちょっと待つべきだったのかもしれない」
「早いと女に嫌われるぜ」
「どこでそんな言葉を覚えてきたんだい」
彼は細い肩をすくめた。彼の赤い瞳は、女が自分が持ってきた土産を貪るのを見つめていた。白い顎を伝い、新鮮な血がコンクリートに滴っていた。女は友人が最近引き込んだらしいが、あまり上手くいかなかったようだ。時期を間違った、と話したが、もともとあまり適正がなかったのかもしれない。こちらに来るのは難しい。特に、正気を保ったままでは。彼にも原理はよくわからないが、彼の手で引き込んだ同類でもそれぞれの力や体質に個体差がある。
この女には人を狩るほどの能力がない。それどころか意識を保っていられる時間すら短い。にも関わらず欲望が強く、人の血ではないと満足しない。目を離すと食料を求めて彷徨い出てしまうため、友人が代わりに狩りをすることさえできない。本来なら淘汰されるだろうしそれに任せるべきなのかもしれないと彼は考えるが、助けを求められれば応じてやることにしていた。大切な友人の宝物であれば、彼に取っても宝物だ。彼には同類一人分の食料ぐらい造作なく都合できる。人間の面倒はさすがに手間が掛かったな。彼は友人を見上げる。
「行儀が悪いのに美食家とは厄介だな」
「そう言わないでくれ。悪いのは僕なんだ」
「君も身の程に似合わない重たい荷物を持とうとする」
「返す言葉もないよ」
「辛いのか?」
「僕が辛いというのはおかしいかな。でも一人で面倒を見きれないというのは、そうだね。辛い」
彼は目を細めた。若い男は血を吸い尽くされて、力なく横たわっていた。女は既にそれには興味をなくし、自分の手についた血を舐めている。白い手だった。石膏や陶器のような彼と友人のそれとは違い、女の肌の白さは乳の白さだった。豊かなものを柔らかく抱えた白。触れたらあたたかいのかもしれない。
「馬鹿げてるよ」
「……そうか」
「助けてなんてやらなければよかった」
「……すまない」
「惚れた女の始末ぐらい自分でつけろ」
「本当に、そうだ」
「その子、誰?」
高く優しい声だった。血だらけの顔で、ぺたりと床に座り込んで、女は友人を見上げていた。友人はカウンターから降りて、女の顔を拭ってやった。女はされるがままになっている。
「ほら、綺麗になった」
友人の声に、女はうふふと子供じみた声で笑い、それから彼のほうを見た。
「あの子、誰なの?」
「友達だよ。君のご飯を持ってきてくれた」
「本当に? ありがとう」
「……どういたしまして」
「本当におなかがすいてたの。ありがとう。美味しかった」
ありがとう。
彼は女から顔を背けると、食べ滓に歩み寄り、つま先で軽く蹴った。すると、床の血痕さえ残さず、それは闇に飲み込まれた。女は血痕があったはずの場所を指でなぞり、不思議そうな顔をした。その頭を友人が撫でると、その肩に擦り寄った。
「見事だな」
感嘆の声を上げる友人に、眉を寄せる。女は腹が満ちてもう眠くなったのか、だらりと友人の肩に凭れている。
「うまいものが食べたきゃこのぐらいは出来るようになれよ。じゃなきゃ鼠の血でも啜ってな」
友人は笑った。
「荒れてるな」
「荒れるさ。言っただろう。失恋したって」
「……人間に?」
「人間じゃなかったら何に惚れるってんだ。血を吸う化け物にか? そんなの僕だってごめんだよ」
吐き捨てると片頬だけを持ち上げて、彼は嗤った。友人は答えなかった。彼は幼い瞼を伏せた。
「……僕は君がうらやましいよ」
彼の声は細かった。
「こんなときだけ、すまない」
「いいさ。君は僕の友人。僕の息子。僕達の愛も友情も永遠さ。そこの行儀の悪いお嬢さんも考えようによっちゃ僕の孫娘ってわけだ。僕には男としての責任がある」
「ありがとう。父さん」
微笑む彼に、友人は尋ねた。
「また旅に出るの?」
「まあね。独り身になったから、気楽なもんさ。どこでも行ける」
「そうか」
友人は控えめに提案した。
「ここにずっといてくれたら、僕としては嬉しいんだけど」
彼は迷うこともなく首を振った。
「そのお嬢さんのご飯ならころあいを見て持ってくるよ。僕はテレビのない生活なんてまっぴらだ。新婚の邪魔もしたくないしね」
「そうか」
友人は寝入った女を抱えて、自分の膝に横たえた。手間のかかる女だ。だが彼にとって女とはそうしたものだった。重たく厄介で弱く狡猾で臆病で。それから。
彼は目を逸らした。小さく嗤う。
「僕もまた、惚れた女に乗っかられてひいひい言いたいもんだよ」
「だからどこでそんな言葉を」
「君より長く生きてるんだぜ。これでも」
友人は笑う。
「そうだった」
「じゃ、僕は行くよ。またね」
「ああ、また」
彼は友人に背を向け、後ろ向きにひらひらと手を振った。友人は眠った女の手を取って、振り返した。
そうして親しく冷たい暗闇から、彼は姿を消した。そこは彼の居場所ではないからだ。
「もう一人ぐらいもらおうかな」
彼は街角に現れる。繁華な通りを歩く、小さく異様な少年に、目を向けるものは誰もいない。彼は優れた狩人だ。誰の目にも留まらず、困難も躊躇も知らない。赤い瞳を細めて、人の群を見る。獲物の群を。そこに彼の求める顔はない。彼はそれを知っている。それでも見つめる。ないとわかっているものを探すほかに、どうやって時間を潰せばいいというのだろう。何の目的もなく生まれた者は。
夜でも明るい街、絶え間ないざわめきに包まれる街、誰もが彼にとって他人の街、愛しい人のいない街、そこだけが今の彼の居場所だった。そして失われたぬくもりの記憶だけが、彼に必要な荷物だった。ひどく小さく、だが重い、荷物だった。




