長い旅(十七)
そうして、私の短い旅は終わった。
私は死ななかった。
気がつくと、病院にいた。初めは一体どういうことなのか、そもそも自分が誰なのかさえ、わからなかった。というよりも、考えなかった。
頭の中には白く濃い靄だけが詰まって、私はただ肉体の反射で食事を取り、人と簡単な言葉を交わした。自分というものは靄のむこうがわで、ただ目の前で起っていることしか存在していなかった。
しばらくすると、見覚えのある中年の男女が私を迎えに来た。彼らと話しているうちに、少しずつ、私の中の靄が晴れて、記憶と意識も戻ってきた。
彼らは私の伯父と伯母だった。母の兄とその妻。実際には何の血のつながりもない人たちだけれど、山道での事故で父と母と死んだと思われていた私が生きていたことを本当に喜んで、身体を心配してくれた。話を整理すると、私はある日交番に何かに追われているように逃げ込んできて、そのまま意識を失ったらしい。首には動物に噛まれたような傷が残っていて、失血があったのかかなり衰弱していたのだという。奇妙なことだと、私は他人事のようにその話を聞いた。
一体何があったのか、この二年何をしていたのか、そのときはまるで思い出せなかった。彼らはそれでいいと言ってくれた。私が生きていてくれたのなら、それでいいのだと。伯母が何度も泣くので、つられて私も何度も泣いた。いくつかの手続きが終わると、私は彼らの家に一度引き取られた。そこには二つ年上の従姉がいて、彼女も私の顔を見ると泣いた。私も泣いた。何故泣くのかもわからないままだったけれど、流す涙も、抱きしめてくれた従姉の胸も腕も、あたたかかった。
籍がなくなっていた学校のことや、生活のことは、落ち着いてから考えればいいと言われた。私は静
かに居場所を取り戻していった。簡単なことだった。靄の中の二年など、たいした問題ではなかった。伯父も伯母も従姉も、多少過保護で過干渉ではあるけれど、くるまれるようなあたたかさは、むしろ心地よかった。私は結局、人の中にいるのが一番いいのだ。思い知らされる。
シュウのことを思い出したのがいつだったのか、よくわからない。いつのまにか、私の意識にシュウは寄り添っていた。最初は感情を伴わない印象として、ふとしたときに赤い瞳の小さな男の子が脳裏を掠めていった。やがて、それは小さなエピソードになり、そのうちに、一つの物語になった。ほんの二年の、ちょっとした旅の物語。
シュウの記憶は、現実とは違う場所にあるようだった。私の今の生活とはまったく関係のない、閉ざされた場所にある物語。だからその記憶は、私をかつてのようには苦しめない。杉山さんのことも、あの男のことも、ただの文字の羅列のように、ただそこにある。その物語を抱えたまま、私はごく普通に、まっとうに、生活している。この生活は、シュウのくれたものだ。
シュウは優しかった。最初から、最後まで、ずっと、とても優しかった。
時折、どうしようもない夜がやってくる。私は布団を被り、目を閉じ、シュウを思う。小さなシュウ。孤独な、夜にしか生きられない男の子。今も彼が一人で夜の中にいるのだと思うと、身体を引き裂かれるような思いがする。
君は僕のともしび。そう言ったシュウ。すぐに消えてしまう弱い炎。
今なら、彼の言っていることがわかる。けれど私はもう、シュウの夜を照らすことはできない。
全てはもう、終わってしまったことだ。私のこの先の人生は、彼とは関係のない場所にある。そして、彼の旅も。いずれ、シュウが私のほかに灯りを見つけるのかもしれない。それは一人の女としては愉快な想像ではないけれど、もし見つからないとしたら、彼の夜はどれだけ暗く、長いものだろう。
首の傷は、少しずつ薄くなっている。やがて、跡も残さず消えてしまうのだろう。
それでもいずれ、シュウが言った「次」がもし本当にあるとすれば、私はシュウとの旅の報いを受けることになるのだろう。私がたくさんの人、父と母を含めて、たくさんの人たちの命が奪われるのを、安穏と見ていたことは確かなのだから。自分が生き残るために、色々なことに目と耳を塞いでいたことは、弁解できない。けれど私は、塞ぐ手を失った今でもそれを懺悔しない。私は私の罪、シュウによって齎された罪を、「次」に誰か大きなものに裁いてもらうまで、抱えておく。生きているあいだは誰にも許させない。正直に言えば、私は身勝手な人間だから、私の「次」が安らぎの場所ではないということは、嬉しいことではない。
けれどシュウが私に残してくれたのは、この罪だけなのだ。そして私がもしシュウに与えられるものがあるとすれば、二人の罪への裁きだけだろう、と、考える。彼にはおそらく、裁いてくれる相手も、罪も、ないのだ。それは一体どれだけの孤独だろう。
私は何にも許されようとは思わない。それでも、祈る。もし聞き届けてくれる相手がいるのなら。
私のたった一人の、愛して、失った男の子のことを、泣きながら、祈る。
シュウの長い孤独な旅を、一つでも多く照らしてくれるものがあるように、と。
「長い旅」はこれで終わりです。ありがとうございました。




