長い旅(十六)
初めて会ったとき、私はシュウに、父と母をありえない手段で殺した幼い男の子に、微笑んだ。
一体どうして微笑んだのだろう? 私は父も母も、少なくとも嫌いではなかった。感謝していた。暴力は嫌いだった。それなのにどうしてシュウを、すぐさま受け入れられたのだろう?
私はそれまでその理由を、恋に託していた。私はシュウに恋をしたから、彼から逃げなかったのだ、と。そう信じて、疑わなかった。でも、本当にそうだったのだろうか?
今ならわかる。
私は、嘘をついていたのだ。シュウにも、自分にも。巧妙な嘘を。
でももう、私は本当のことを、知ってしまっている。
顔を覆い、ベッドに上体を倒してみっともなく泣き続ける私の頭を、シュウは撫でてくれる。瞼が熱くて痛い。鼻が詰まって、喉は嗚咽で痙攣していて、上手く息ができない。苦しい。
「大丈夫、大丈夫、怒ってないよ」
何度も何度も、繰り返してくれる。多分その通りなのだろう。シュウは私に怒ったりしない。シュウは優しい。最初から、ずっと、優しかった。初めて会ったときからずっと。
その優しさが、今は苦しくてたまらなかった。シュウを愛している。全てが曖昧で頼りない私だけれど、それだけは確かだった。今、私はシュウを愛している。確かに、愛している。私なりの身勝手で惨めなやり方で、彼をどうしようもなく愛している。そして私と言う人間には、そんなふうにしか愛することができないのだ。涙が止まらない。苦しい。
わかっていた。もう全部、わかってしまっていた。
私たちの旅は、おしまいだ。
嗚咽の中で、喉から無理に言葉を絞り出そうとするけれど、ただの音にしかならない。
「なあに?」
シュウは自分よりもずっとちいさな子供に尋ねるような声を出し、背中をリズムをつけて軽く叩いてくれる。そのリズムに合わせるように、私はゆっくり呼吸を直そうとする。こんなに優しい男の子がああいう生き物だなんて、一体どういうことなのだろう。お風呂場で何が起こったのかを考えると、胸が悪くなった。私はそれを受け入れることはできない。もう、私たちは一緒にいられない。
「ゆっくりでいいよ。どうしたの?」
「……して」
「なあに?」
涙を拳で乱暴に拭い、シュウの顔を見る。小さな可愛い唇が、私を安心させようと微笑んでいる。
「ころして」
シュウの唇から笑みが消える。私は震える声で繰り返す。
「殺して」
すぐそばにある赤い目が細くなる。恐怖と安堵を同時に感じる。
これで、おしまいだ。
シュウが口を開く。
「……どうして?」
その声の弱弱しさに、私は耳を疑った。シュウはほとんど泣き出しそうな顔をしていた。もしもシュウに、泣くことができるのであれば。
「どうしてそんなことを言うの? そんなことが、僕にできると思ってるの?」
細い声でつむがれたシュウの言葉の一つ一つが、心臓に突き刺さる。もう私は傷だらけだった。でも、おそらくそれよりずっとシュウを傷つけているのだとわかった。
「君が死んじゃったら、この世はまっくらだよ。僕にはもう夜しかないのに」
いつかのシュウの言葉を思い出す。
「ともしび……」
「そうだよ。君は、僕のともしび。たった一つの僕の灯り」
シュウはこわれものを確かめるように、私の頬をそうっとなぞった。
「そんなに人が死ぬのが嫌?」
一瞬だけ迷い、私は頷いた。シュウは聞き分けのない子供に対するように微笑むと、私の頭の下に腕を入れて、柔らかく抱き込んだ。
「でも、君たちには、次があるんだよ。その次がどんなものかは僕は寡聞にして知らないし多分知る機会もないだろうけどさ、君たちにはこの世だけじゃない。『次』があるんだ。信じないかもしれないけど、僕にはわかってる。君たちは、たとえ死んだって、そこが終わりじゃない」
話しながら、シュウは私の背中をなでてくれる。冷たい手で。
「君たちは、僕とは違う。僕には今が『次』なんだ。この世が、僕の彼岸なんだ」
私はシュウの頭をなでた。そうすべきではないような気がしたけれど。シュウの頭は綺麗に丸くて小さくて、触れているとまた涙が出そうになった。シュウが愛おしかった。離れたくなかった。離れて生きていくことなどできないと思った。
それは、私にとっては誤算だったのだと思う。もうよくわからないけれど。
「でも、私には、今生きていることが大事なの」
ずっとそうだった。私にとって、誰かの命が軽くなったことなど、一度もなかったのだ。私はごく当たり前の、本当に当たり前の人間だった。自分本位で、身勝手で、場当たり的で、臆病で、そして、人が傷つくのも嫌だった。実際には自分を守るために、誰かを見殺しにしたとしても、それが良いことだと思ったことなど、多分一度もなかったのだ。
初めて会ったとき、私はシュウに微笑んだ。
シュウに恋をしたからではない。母の目は、私に「逃げなさい」と言っていた。違う。「生きなさい」と言っていたのだ。私はそれに従った。この得たいの知れない生き物から逃げることはできないと悟ると、彼に、媚びたのだ。生き残るため、一か八かの賭けに出たのだ。失うものは何もなかったのだから。そして、シュウは私を殺さなかった。
私は、賭けに勝った。少なくともその場では。
そして二年経って、自分でかけた罠にかかった。シュウを本当に愛してしまうことで。
「そうだね。だから僕は、君がとても好きになったんだ」
私は微笑んだ。絶望的だった。シュウにはわかっているようだった。最初から、わかっていたのかもしれない。
私はシュウの小さな身体にぴったりと寄り添う。いとおしさと苦しさで胸が引き絞られる。シュウを愛していた。この小さな男の子の全てを、夜にしか生きられない、近くにいるのに遠く隔たったこのちいさな生き物を、本当に愛していた。私にはどうしようもなかった。私達にはもう、一緒に出来ることは何一つ残されていない。
不意にシュウが両腕で、私をきつく抱いた。耳元で、何かにせかされているかのようにしゃべりだす。
「ねえ、僕、これからは完璧にやるよ。君に血の気配なんかまったく感じさせない。君を大事に大事にしてあげる。今よりもっと優しくなる。毎日動き回らなくてもいいようにしてあげるし、元気になるまでずっと守ってあげる。なんにも心配なんかしなくていい。もしずっと元気にならなくても、僕がなんでもしてあげる。僕に何かしようなんて考えなくていい。ただ、ただ、ただ、僕は、君が、そばにいてくれるだけでいいんだ。ほんとうに、それだけでいいんだ」
私は目を閉じる。シュウは続ける。
「ずっと一緒にいよう。どこまででも二人でいよう。僕が守ってあげるから。もう悲しくなんてさせないから」
哀願の一つ一つが、私を切り裂いていく。その痛みを、私は一つ一つ大切に味わう。シュウから与えられるものは、もうすべてがいとおしかった。
「愛しているんだ。君だけを、愛しているんだ。いつまでも」
いつまでも。
その言葉を聞いた途端、ぐっ、と、喉が音を立てて詰まった。それは私には背負えないほど重たい言葉だった。取り返しのつかないことをしたのだと、思い知らされる。
「シュウ」
震える唇で、シュウを呼ぶ。両肩に手をかけて、距離を取る。私を見つめる赤い瞳。
「ころして」
喉に何かが詰まったまま、震える息で、シュウに言う。声にならない言葉を、シュウは確かに理解したようだった。途方に暮れたような目で、私を見つめる。
私の要求がひどいものだというのはわかっていた。
だけど、もうそれ以外の何も残ってはいなかった。私はもう壊れてしまっている。シュウの傍にいる
限り、元に戻ることはできない。傷は増えていくばかりだ。でも、壊れきることも私にはできない。
人であることを捨てるときは、私には、来ない。
旅はもう、終わりなのだ。二人ではもう、どこにも行けない。
シュウは目を伏せて、丸い白い瞼を見せた。それから、私の目を覗き込み、微笑んだ。曇りなく澄んだ、とても綺麗な笑顔だった。
「さよなら」
そして、私の首に、噛み付いた。牙が首の薄い皮膚を食い破り、喉が潰れて、声も出せない。痛みに感覚全てを塗りつぶされながら、死ぬのはやっぱり、とても辛い、と、頭のとても小さな部分で、考えた。




