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夜の人々  作者: 古池ねじ
長い旅
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長い旅(十五)

 どこに行けばいいのかわからず、人の多い橋の上で適当に突っ立っていると、すぐに声がかかった。


「君、時間ある?」


 私は頷かず、ただぼんやりとその顔を見上げた。三十前ぐらいの男だった。ひどく日に焼けて、痩せている。どうやったらこうなるのか不思議なほどくたくたの、元がどんな色だったのかもわからない服を着ている。ヘビースモーカーなのか、ひどく歯がよごれているのを見て、何故だかこれでいいや、と思った。これならいいや、と。


「ええと、大丈夫?」


 今度は頷いて、微笑んだ。男も笑った。


 簡単なことだった。今日行く場所がないという私のたどたどしい説明も、男が勝手に補ってくれた。私の腰に手を回して、身体を寄せてくる。汗と煙草の匂いが鼻についた。陽は沈んだばかりだった。青黒い空に、色とりどりのネオンが眩しい。


「何か食べる?」

「お腹すいてない」


 素っ気無く返しても、男はまだ笑っていた。汚れた歯。私は気持ちがかすかすになった。私の中身は空洞だらけで、そこに男の体臭が沁み込んでいくような。この人は、そんなふうに思われることをわかっていないのだろうか。それとも、分かった上で気にしないのだろうか。


 馬鹿げている。そんなことを考えたって、どうしようもない。


 ラブホテルというものに、初めて入った。フロントは無人で、写真を見て部屋を選ぶ。私は憂鬱を隠そうともせずに、男が慣れた様子でチェックインするのを見ていた。


「こういうところ、慣れてないの?」


 私は頷いた。そこで、私の乗り気でない態度は、決してこの男の気分を削ぐものではないことに気付いた。私の仕草の一つ一つ、肉体の部分がそれぞれ全部、性的な欲望の対象なのだ、と考えて、気分が悪くなる。


 部屋は狭く、どこか埃っぽいような匂いがした。ドアが閉まった瞬間に、男は私の首筋に顔を埋めてきた。ひどく高い体温。鼻に刺さるような体臭。私はそれを押しとどめて言った。


「シャワーを浴びて」


 怯えているせいで、必要以上に攻撃的な声が出た。男は怯えている私が好ましいようで、思いのほか素直にシャワーを浴びに行った。私は安堵する。扉越しに、鈍く水音が聞こえる。


 でも、急がなければいけない。やりそこねるわけにはいかない。鞄を開けて、さっき買ったばかりの包丁を取り出した。


 カバーを外し、指で刃を軽くなぞる。オレンジの照明の下で、包丁は不穏に光る。手に汗をかいていて、うまく握れない。水音がする。今、シャワーを浴びている男。私は震えている。


 やらなくちゃいけない。


 そう考える。シュウと同じ場所に行くためには、こうするしかないのだ。このまま時間に任せていても、どんどん私とシュウの距離は開いていくだけだ。どんなに乱暴なことでも、やらなくちゃいけない。


 包丁を握る。これを使って、あの男を殺さないと。水音がする。生きている人を、殺さないと。


 生きている人を。手が震える。この刃を、あの男の身体に押し込めばいい。あの、悪いことかくだらないことしか詰まっていなさそうな身体に。別に難しいことじゃない。そのはずだ。一人殺したって、どうということじゃない。シュウだって、何人殺してる? 今私が一人殺したって、


 手の震えはおさまらない。頭のどこかで声がする。


 できない。


 首を振る。嘘だ。声は止まらない。


 できない。


 包丁が、力の抜けた手から落ちる。


 できない。


 唇を噛む。のろのろと、包丁を拾い上げた。刃を力を入れて指に当ててみる。痛い。力が抜ける。身体から殺意も落ちていってしまったようだった。どう見ても、それはただの包丁だった。何かを調理するための道具で、人を傷つけるためのものではなかった。自分の指の皮を切ることさえ痛くてできない。そんなことはしたくなかった。お風呂場からは水音がする。人が一人、シャワーを浴びている。色んな人の中で生まれて、色んな人の中で生きていく人が、一人。生きている。


 できない。


 涙が滲んだ。うすうす分かっていたことではあるけれど、もう、認めざるを得なかった。ひどく惨めだった。包丁をケースにしまう。刃が隠れてしまうと、ほっとした。それもまた、惨めだった。


 私には、できない。いいとか悪いとかじゃない。できないのだ。私という人間には、人を殺すという機能がない。そういう行為と私との間には、高くて長い壁があった。どれほど近づこうとしても、そこには、行けない。


 できない。


 もう何もする力が残っていなくて、私はベッドに座る。男がシャワーを終えたら、私はあの男とここで寝るのだろう。吐き気がした。私の中にはあの男に対する好意などひとかけらもなく、あるものと言ったら嫌悪と軽蔑だけだった。そんな男と、寝なくてはいけない。考えただけで胃がおかしくなりそうだ。


 それでも少なくとも私がしようとしていたことに比べれば、まだ実現可能な行為だった。私はそれができる。すごく嫌だけれど、でも、できる。


 身体が震えて、ありとあらゆる場所が汗で濡れている。水音がやんだら、男が来る。私はそれを待つ。一つの罰として。息がうまくできない。


 そのときお風呂場から、大きな音がした。


 水音はまだやまない。男が転びでもしたのだろうか。そういう不穏な音だったけれど、見に行くわけにもいかないので、ただ座っていた。


 水音がとまる。お風呂場の扉が開く。


「言い訳することはある? 浮気なお嬢さん」


 出てきたのは、シュウだった。汗が一度に冷えて、私の皮膚から温度を奪う。黒いパーカーに黒いジーンズという恰好のシュウは、ずぶ濡れだった。前髪から水滴が顔に落ちる。それが鬱陶しいのか、犬のようにぶるりと身体を震わせる。するともう、髪も服も乾いていた。何事も起らなかったように。それが変なふうにおかしくて、私は片頬だけで笑った。シュウは離れた場所で、それをつまらなそうに見ている。私の言い訳を待っているのだ。彼にはお風呂場で起ったことなど、どうでもいいことなのだろう。彼にとってはあの男の生き死になんて、たいしたことではないのだ。彼にとっては。


「何も」


 と私は答えた。弁解するべきことなど何もなかったからだ。そして、泣き出してしまった。


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