長い旅(十四)
とても人の多い街に来た。久しぶりに駅ビルというものに行って、服や、他に必要な色々なものを買った。人がたくさんいる。みんなとても早足で、戸惑う。人をよけることと、行きたい方向に進むことが両立できない。
人が、たくさんいる。とても、とても、たくさん。人の群。無数の人。これはただの群に過ぎない。色とりどりの服を着て、違った顔をして、それぞれの人生を歩んでいる、人の集合。それだけ。それだけに、過ぎない。だからなんだというのだろう?
トイレで服を着替え、化粧をした。髪型も少し変える。必要なものだけを普段の鞄からさっき買った小さめの鞄に移す。普段の鞄はコインロッカーにしまった。
普段と違う服装、人目に触れるための服装が、馴染まなくて、居心地が悪い。私は何をしているのだろう? 通り過ぎていく中年男性の視線が、私の身体を掠めていく。そういう類の服装だ。私は口紅を厚く塗った唇を持ち上げて、自分を笑う。本当に、何をしているのだか。
でも他に、出来ることはなかった。
やらなくてはいけない、と思う。どうしてもやらなくてはいけない。馬鹿げたことだとはわかっていた。
シュウ。唇だけを動かして呟く。シュウ。そうやってなんとか自分を奮い立たせる。やらなくてはいけない。
一ヶ月前、公園であったことを思い出す。それから、二年前のこと、ここ一ヶ月ずっと思い出していたことを。それまでずっと思い出さなかったことを。
あの日、私たちは車に乗っていた。私と、父と、母。親戚の家に行った帰りで、陽が沈んでから随分時間が経っていた。家に着くのはかなり遅くなってからだろうと考えて、私は憂鬱だった。翌日は月曜で、学校に行かなくてはいけなかったから。車は山道を走っていた。暗くて本も読めないので、私は眠りかけていた。
車の中には父の趣味のキンクスが掛かっていた。耳に慣れた、というよりむしろ聞き飽きた、ギターと少しこもった声。You Really Got Meという曲。あれがビートルズやローリングストーンズ、あるいはもっと流行っている音楽でなくてよかったと今になって思う。街でキンクスを耳にすることなんてほとんどないから。
「あれ?」
そのとき、父が急に車を止めた。その揺れで、私は薄目を開けた。
「どうしたの?」
母が尋ねる。
「いや、今、何か動いたような気がして」
「何かってなんですか。鹿?」
「いや、そういう感じでもなかった……人がいたのかと思ったけど、見間違いかな」
「変わりましょうか? 運転」
「いや、いい。ここまでくればあと少しだから」
父と母の話し声を、私はぼんやりと聞いていた。
私は二人を、別に嫌いではなかった。ただ、いつも自分を彼らとは違うものだと感じていた。それは私が二人の実子ではなかったせいかもしれない。私は本当は父の妹の子供だった。遺伝上の母は何か問題があって、親戚と半ば絶縁していた。私は彼女のことをほとんど、漏れ聞いた悪い評判以外、何も知らない。遺伝上の父のことは、全く知らない。
でも私の違和感はそういった個人的な問題ではなく、娘という生き物が十七歳の頃に当然感じるべきものに過ぎなかったのかもしれない。あるいは、常軌を逸したところがあるという母親の血のせい、もっと言えば、多分そうまともな人間ではない父親の血のせいだったのかもしれない。けれど、正確なところはわからない。もうわかることもないだろう。決して。
とにかく、私は彼らが嫌いではなかった。彼らは私の知る限りでは疑いなくいい人だったし、私にはいつも優しかったように思う。
父は動いたものを、単なる見間違いだったと結論づけた。車を再度動かそうとしたとき、車が、ひどく揺れた。重たいものが上に落ちてきたかのように。衝撃で私は窓に頭を打ちつけた。喉が締め付けられたような痛みに、一瞬意識を失った。
目を開けたとき、何が起こっているのか、その瞬間にはまるでわからなかった。
父の首に、男の子が噛み付いている。彼の小さな手は、母の首を締め付けている。母の顔は膨れ上がり、口から長く舌が飛び出していた。
ずっ、ずっ、と音を立てて、男の子は父の首から何かを吸い上げている。その間、母は目を見開いて、私を見ていた。逃げなさい、とでも言いたかったのだろうか、と考えるのは、少し自分に都合が良すぎるかもしれない。
男の子はやがてずずっ、と一つ大きく啜り上げると、父の首を離した。そして、運転席から助手席に、正確には運転席の父の身体のうえから助手席の母の身体の上に移動した。母の首から手を離す。
そして、母が悲鳴をあげる前に、その首に噛み付いた。
私はその光景を、声も上げずに見ていた。シートベルトをして、行儀よく座ったまま。
どのドアもどの窓も開いていなかったし、ガラスも割れてはいなかった。この男の子は一体どこから入ってきたのだろう。ずっ、ずっ、と母の首から、どうやら血を啜っているらしい男の子の黒い髪を見ながら、私は考えるでもなく考えていた。
そのとき赤い目が、私を見た。暗闇の中でも目に鮮やかな赤い瞳。
ずずっ、と、やはり大きく一つ啜り上げると、彼は母の首を離した。がたん、と母の頭が、背もたれに落ちた。男の子の血まみれの、小さな顔。彼は私を見ていた。私も彼を見ていた。
You really got meと、キンクスが歌っていた。こもった声で。繰り返し。繰り返し。
You really got me.
私は、彼に微笑んだ。
彼は驚いたように目を見開いた。それから、血まみれの唇で、はにかんだように微笑み返した。
「怖くないの?」
可愛い声だな、と思った。私は微笑んだまま首を振った。
「のんきな子だなあ」
男の子はあきれたように、でも楽しそうに、言った。
それが、私たちの出会いだ。
私は考える。今まで決して考えなかったことを。
あのときに、私は彼を好きになったのだと、ずっと思っていた。あんな状況にも関わらず、逃げることさえ考えず、私はシュウを、一目見て好きになったのだと。
だからこそ、私は何もかもを、彼のために何もかもを捨てたのだ、と。




