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夜の人々  作者: 古池ねじ
長い旅
19/24

長い旅(十三)

 あの日から、一ヶ月が過ぎても、私は相変わらずだめだった。相変わらず、どころか、悪化してさえいた。


「ただいま」


 シュウが言う。私は布団の中で、ただ横になっている。返事をする気力もない。


 シュウが布団をめくってくれる。私のこめかみに口づけて、髪をなでてくれる。


「大丈夫?」


 私は薄く目を開ける。眩しい。否定も肯定もしないでいる。シュウは僅かに首をかしげる。


「ごはん、食べた?」


 小さく首を振る。振ってから、お腹がすいていることに気付いた。最近はずっとそうだ。私はどんどん一人でできることが減っている。


「起きる?」


 頷く。シュウは背中に手を当てて、起こしてくれる。そのまま私はシュウをベッドに座らせて、もたれかかるように抱きついた。シュウは慌てた様子もなく、私の髪をなでる。


 身体がひえたので離れると、シュウが僅かに微笑んで言った。


「プレゼントがあるよ」

「プレゼント?」


 さして楽しみでもなかったけれど、なんなのかは気になった。


「はい」


 シュウが差し出したのは、ケーキの箱だった。チェーン店のものではない、ちゃんとしたケーキ屋のもの。


「ケーキなら、君も食べられるかと思って。紅茶も買って来たよ」


 シュウは微笑んでいる。私の唇が、微笑みに似た形に歪む。自分の意志とは無関係に。


 シュウは箱を開ける。中にはベイクドタイプのチーズケーキと、苺のショートケーキが入っていた。チーズケーキは強めの焼色が綺麗だし、ショートケーキの生クリームの筋のつけ方がいかにも素朴な感じで美味しそうだ。甘い匂いがする。


 きっとこのケーキを作った人も、ケーキが大好きなのだろう。


 その発想に、吐き気がした。思い出したことで記憶が鈴なりになって、私の頭は杉山さんのことに支配される。細かいことはもう定かではないのに、あの人の印象は時間を経るにつれて、凝縮されるように濃くなっていく。いつも楽しそうだった人。自分の人生を屈託なく好きだった人。あたたかい手。あの後、あのお店はどうなったのだろう。一緒に経営していたという友人は、どれだけ彼を心配しただろう。人ひとりいなくなるということは、どれだけ重いことだろう。


「……大丈夫?」


 シュウの問いに、私は首を振った。シュウに悪気がないことはわかっていた。私に彼が理解できないように、彼には私のことがまったく理解できないことも、わかっていた。口を手で覆う。目に涙が滲んだ。


「ごめんね」


 なだめるような微笑を浮かべてシュウは言い、ケーキを箱ごとゴミ箱に突っ込んだ。私はゴミ箱から目を逸らす。シュウが隣に座るので、私は彼の胸に顔を埋めた。彼が私の髪をなでる。本当に、私は一体どこまでシュウに甘え続けるのだろう。


「聞いてもいいかな」


 シュウが尋ねる。私は何も言わなかったけれど、シュウは続けた。


「あの男のこと、好きだったの?」


 聞かれてしまった。


 答えられなかった。わからないのではなく、答えるのが怖かった。


「答えて」


 でもシュウは、許してくれない。


「あの男のこと、好きだったの?」


 杉山さん。


 笑顔が綺麗で、感じがよかった。いつも優しくて、少し強引だったけれど、嫌なふうではなかった。距離の取り方がうまくて、あの人と一緒にいるのは、嫌じゃなかった。心地よかった。


 でも、


「違う……」


 掠れた声で、呟いた。涙が出た。


 でも、ただそれだけだった。感じのいい、好感の持てる人。それだけだ。


 あの人が特別だったわけじゃない。


「……そう」


 シュウは頷いて、私の背中を抱いて、引き寄せる。私の真意は、彼に伝わったのだろうか。伝わってしまったのだろうか。怖い。


 シュウの身体が冷たい。寒い。いつもそうだ。身を寄せ合っていても、私たちは温めあうことさえできない。


 私が杉山さんのことを好きだったのなら、もっと話は簡単だったのだ。でも違う。問題は杉山さん自体のことじゃない。あの人はただの通りすがりだ。特別な相手でもなんでもなかった。


 でも、人間だった。生きていた。あたたかかった。いろんな人と関わりあって、自分の場所を持っていた。人生を楽しんでいた。私はそれを知っていた。


 あの人は、生きていた。


「愛してる」


 私は言った。それ以外に私が言えることなど何もなかった。シュウ。シュウ。愛している。ずっと一緒にいたい。他のものは全部どうでもいい。どうでもいい。それなのに。


「僕もだよ」


 シュウは私の頬に口づける。一度拒んでから、唇にキスをしてくれることはなくなった。シュウは本当に優しい。シュウが私に優しくなかったことなど一度もない。


 それでも、私にはもう、わかっていた。どれだけ時間が経っても、私の状態がよくなることはない。シュウと一緒にいる限り、私は苦しみ続けるだろう。


 私が苦しんでいるのは、杉山さんを好きだったからではない。


 私が受け入れがたいのは、シュウが、本当に人を殺すのだということ、そのもの。


 シュウという生き物のありかた、そのものだ。


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