長い旅(十三)
あの日から、一ヶ月が過ぎても、私は相変わらずだめだった。相変わらず、どころか、悪化してさえいた。
「ただいま」
シュウが言う。私は布団の中で、ただ横になっている。返事をする気力もない。
シュウが布団をめくってくれる。私のこめかみに口づけて、髪をなでてくれる。
「大丈夫?」
私は薄く目を開ける。眩しい。否定も肯定もしないでいる。シュウは僅かに首をかしげる。
「ごはん、食べた?」
小さく首を振る。振ってから、お腹がすいていることに気付いた。最近はずっとそうだ。私はどんどん一人でできることが減っている。
「起きる?」
頷く。シュウは背中に手を当てて、起こしてくれる。そのまま私はシュウをベッドに座らせて、もたれかかるように抱きついた。シュウは慌てた様子もなく、私の髪をなでる。
身体がひえたので離れると、シュウが僅かに微笑んで言った。
「プレゼントがあるよ」
「プレゼント?」
さして楽しみでもなかったけれど、なんなのかは気になった。
「はい」
シュウが差し出したのは、ケーキの箱だった。チェーン店のものではない、ちゃんとしたケーキ屋のもの。
「ケーキなら、君も食べられるかと思って。紅茶も買って来たよ」
シュウは微笑んでいる。私の唇が、微笑みに似た形に歪む。自分の意志とは無関係に。
シュウは箱を開ける。中にはベイクドタイプのチーズケーキと、苺のショートケーキが入っていた。チーズケーキは強めの焼色が綺麗だし、ショートケーキの生クリームの筋のつけ方がいかにも素朴な感じで美味しそうだ。甘い匂いがする。
きっとこのケーキを作った人も、ケーキが大好きなのだろう。
その発想に、吐き気がした。思い出したことで記憶が鈴なりになって、私の頭は杉山さんのことに支配される。細かいことはもう定かではないのに、あの人の印象は時間を経るにつれて、凝縮されるように濃くなっていく。いつも楽しそうだった人。自分の人生を屈託なく好きだった人。あたたかい手。あの後、あのお店はどうなったのだろう。一緒に経営していたという友人は、どれだけ彼を心配しただろう。人ひとりいなくなるということは、どれだけ重いことだろう。
「……大丈夫?」
シュウの問いに、私は首を振った。シュウに悪気がないことはわかっていた。私に彼が理解できないように、彼には私のことがまったく理解できないことも、わかっていた。口を手で覆う。目に涙が滲んだ。
「ごめんね」
なだめるような微笑を浮かべてシュウは言い、ケーキを箱ごとゴミ箱に突っ込んだ。私はゴミ箱から目を逸らす。シュウが隣に座るので、私は彼の胸に顔を埋めた。彼が私の髪をなでる。本当に、私は一体どこまでシュウに甘え続けるのだろう。
「聞いてもいいかな」
シュウが尋ねる。私は何も言わなかったけれど、シュウは続けた。
「あの男のこと、好きだったの?」
聞かれてしまった。
答えられなかった。わからないのではなく、答えるのが怖かった。
「答えて」
でもシュウは、許してくれない。
「あの男のこと、好きだったの?」
杉山さん。
笑顔が綺麗で、感じがよかった。いつも優しくて、少し強引だったけれど、嫌なふうではなかった。距離の取り方がうまくて、あの人と一緒にいるのは、嫌じゃなかった。心地よかった。
でも、
「違う……」
掠れた声で、呟いた。涙が出た。
でも、ただそれだけだった。感じのいい、好感の持てる人。それだけだ。
あの人が特別だったわけじゃない。
「……そう」
シュウは頷いて、私の背中を抱いて、引き寄せる。私の真意は、彼に伝わったのだろうか。伝わってしまったのだろうか。怖い。
シュウの身体が冷たい。寒い。いつもそうだ。身を寄せ合っていても、私たちは温めあうことさえできない。
私が杉山さんのことを好きだったのなら、もっと話は簡単だったのだ。でも違う。問題は杉山さん自体のことじゃない。あの人はただの通りすがりだ。特別な相手でもなんでもなかった。
でも、人間だった。生きていた。あたたかかった。いろんな人と関わりあって、自分の場所を持っていた。人生を楽しんでいた。私はそれを知っていた。
あの人は、生きていた。
「愛してる」
私は言った。それ以外に私が言えることなど何もなかった。シュウ。シュウ。愛している。ずっと一緒にいたい。他のものは全部どうでもいい。どうでもいい。それなのに。
「僕もだよ」
シュウは私の頬に口づける。一度拒んでから、唇にキスをしてくれることはなくなった。シュウは本当に優しい。シュウが私に優しくなかったことなど一度もない。
それでも、私にはもう、わかっていた。どれだけ時間が経っても、私の状態がよくなることはない。シュウと一緒にいる限り、私は苦しみ続けるだろう。
私が苦しんでいるのは、杉山さんを好きだったからではない。
私が受け入れがたいのは、シュウが、本当に人を殺すのだということ、そのもの。
シュウという生き物のありかた、そのものだ。




