長い旅(十二)
全ての行動が、全ての見るものが、特定の記憶に繋がってしまう回路が、私の中に出来ていた。たとえば歩いていると、あの公園までの道を思い出す。車を見ると、あの日乗っていた車を思い出す。
生活のうえでの全てが繋がって、私に吐き気をもたらした。食事がほとんどとれなくなった。本当なら、暗いところでいつまででもじっとしていたかった。それは出来ないので、昼間はひたすらに街を歩くか、電車に乗って、遠くへ行った。人がたくさんいるほうが、何故だか気分がましだった。人の群。一人ひとりの顔を見なくていいからかもしれなかった。人の、群。
本当に逃げているようだった。何から? わからない。わからないから、逃げ切ることも出来やしない。
ホテルにチェックインできる時間になると、すぐに部屋を取り、ベッドの中に引きこもった。気を散らすために低くうなり声を上げて、身体を小さくしている。
テレビは前よりも見るようになった。ニュースを怯えながら少し見たけれど、あのことに関する報道は一切見なかった。これからも見ることはないだろうと、なんとなく思っている。死体がなければ事件にもならない。あの公園のことは、誰も知らないし、これからも知られることはない。だからこれは、私の問題なのだ。
本はほとんど読まなくなった。本屋にいると、声をかけられてしまう気がするし、本の中に何か連想させる言葉があったらと思うと、怖い。とても読めない。
帰る場所があればいいのに。
そう思ってしまうのが、このごろ止められない。帰る場所。私個人のための、いつでもある場所。そんな場所はどこにもない。この先できることもない。私はどこにも帰ることはできない。ただただ彷徨い続けるほかに、どんな選択肢もない。それが、恐ろしい。いつまでも彷徨い続けるということが。
シュウは、相変わらず私に優しい。優しすぎるほどだ。長時間出かけることもなくなって、ほとんどずっと傍にいてくれる。
「ただいま」
「おかえり」
シュウは布団から顔を出した私のこめかみに唇をつける。私はシュウの髪をなでる。外気の気配が残る、つめたい髪。
「ごはん、食べた?」
起き上がって答える。
「今から食べる」
シュウの傍でなら、なんとか食事が出来た。鞄からコンビニで買ったおにぎりを取り出す。シュウがお茶を淹れてくれた。
ベッドに二人並んで座って、私は食事をした。シュウは私の太ももや背中をときどきなでるほか、何もしない。テレビもつけない。
私たちは最近、あまり話もしない。うかつに何かに触れてしまうのを怖がるように。
おにぎりを食べ、ぬるくなったお茶を飲み終わると、もうすることがない。シュウが私の顔を覗き込む。
シュウ。
私はシュウをなかばベッドに押し倒し、きつく抱きしめる。背中を抱きこんで、首筋に頬をつけ、脚に脚を絡める。冷たい小さな身体。シュウは驚いた様子もなく私の力をやわく受け止めて、体勢を整えてくれる。私の背中をそっとなでる。
「甘えん坊だな」
「ごめんね」
謝ると、情けなくなって、涙が出そうになる。
「いいよ。甘えられるのも嫌いじゃない」
頬を包まれて、唇が重なりそうになる。赤い唇。血の色。血の匂いのする、シュウのキス。
私は思わず首を引いた。些細な動作だったけれど、シュウは感じ取って、キスを頬にしてくれた。
「愛してる」
私は涙ぐみながら言った。縋るみたいに。言い訳みたいに。
それでもシュウは微笑んで、
「愛しているよ」
と、もう一度、こめかみに口付けてくれた。私たちはそのまましばらく抱き合っていた。私の身体が冷たくなるまで。
ころあいを見計らって、シュウは慎重に私から身体を離す。布団を捲って、中に入るよう無言で促す。のろのろと布団に入ると、また、こめかみにキス。
「お風呂を入れてくるよ。今日は薔薇の花も散らしておくから」
私は小さく頷く。水音を聞きながらまどろんでいると、シュウが私の髪をなでるのが分かった。お風呂にはきっと、本当に薔薇の花が散らしてあるのだろう。お風呂にも一緒に入ってくれるだろう。シュウは、何でもしてくれる。全部「くれる」だ。私は面倒をみてもらうだけ。そう考えると、いたたまれない。
シュウは、とても優しい。優しすぎる。一体いつこの優しさが尽きるのか、不安になる。




